むとうの読書ノート 日本の思想 Ⅳ 「である」社会と「である」道徳

日本の思想

素材
→日本の思想 Ⅳ 「である」社会と「である」道徳

引っかかった点
→儒教道徳が「である」モラルであり、儒教を生んだ社会、また儒教的な道徳が人間関係のカナメと考えられている社会が、典型的な「である」社会だということを物語っている。

最初の反応
→儒教道徳つまり「仁」が「である」モラル?

なぜ引っかかったか
→徳川の治世は「である」、つまり権利の上に胡坐をかいていたから、300年も保たれたのか?

今の仮結論
→完全なカオスであった戦国時代から秩序を作り上げた江戸幕府は、そもそも権利を作り上げるところから始まったと思う。

→江戸幕府は高度に組織を「タコツボ化」し、「イメージを一人歩きさせた」国家であった。
将軍は決して会うことができない神格化された存在であり、それぞれの職責を全うできる組織造りや形式化が徹底されていた。
武士の二本差し、儀礼用の服装など、「である」ことから議論を中断せず、その状態から再開できた。

→老中の「である」服装や行いが受け継がれているため、個人として一から説明する必要がなく、組織の理論を発展させられた。

→あらゆる身分がタコツボ化された組織で育てられ、教育も行き渡った。
黒船来航の際、身分が高くない者も国の行く末を決められたのは、このタコツボ化とイメージの一人歩きの結果ではないか。

→さらに幕府は、神格化された将軍の下で藩ごとに苛烈な競争をさせた。
この歴史的状況と無関係ではなく、日本の技術のガラパゴス化もこの文脈で理解できると思う。

→儒教的「仁」の思想を、江戸幕府は高度に利用したのではないか。

→積極的構造としての「である」社会なのか、それとも国民を「である」ように設計した幕府は「する」主体だったのか、議論の分かれどころである。

行動・意識への接続
→「である」構造で何も疑問なく存在できるとき、その構造を作った存在がいる。
良い会社は枠組み作りが上手く、悪い会社は「である」でいられなくする。
これは組織にいるとき、すべて当てはまる。

→妻が母「である」ことができる家庭は、よい育児ができるだろう。
父としての役割は、育児を「する」のではなく、この母「である」状態を妻が違和感なく維持できるよう、家庭を設計「する」ことだ。
本質的に男が母と同じ目線で育児を「する」ことは不可能である。

保留メモ
→「する」社会は設計者ばかりの社会?
→そうなると社会秩序はどうなるのか?
→「である」ことによって育てる主体はどうなるのか?

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