題名の通りである。
私は、「本当に頭のいい人は、わかりやすく説明できる」論が嫌いである。
「説明できるか否か」は言語化能力の問題であり、その能力が欠如しているが天才的な頭脳を持つ人間は、わかりやすく説明ができる頭のいい人より多数存在していると思う。
この論の違和感を率直に申し上げると、
「怠慢の言い訳」のように感じるのだ。
例えば、私はどうやっても化学が理解できない。数学は高校3年生で習う「数Ⅲ」で挫折した。天才的な科学者が「化学」や「大学数学」について、何万言を私に費やしたとしても、結局はそれらの真の理解に到達しないだろう。それは私が土台が理解できていないからだ。天才のせいではない。
頭のいい人がどうやっても一般人に伝えられない領域がある。
先ほど述べたように、数Ⅲで脱落した私には、大学の数学の内容をどのように伝えても理解できないのである。そこには言語として、数Ⅲの公式の理解がきっと必要で、その共通言語の積み重ねが無ければ、正確な理解が得られないからだ。
このような例はいくらでも考えられる。特に技術的な問題となると、今までの歴史的な文脈の積み上げを理解しないと、正確な理解は得られない。
むしろ、そのような難解な問題をわかりやすく説明する人間を疑った方が良いと思う。
物事は、そもそも0か100ではないので、それをわかりやすく0か100で説明する人は、0か100に何らかの意図がある場合が多い。
その人物が、その物事について0か100と相手が認識すれば、利益を得られる可能性がある。
そして結果として、我々は不正確な認識を得る。
わかりやすく説明する人間は、善意か悪意かに関わらず、一定の不誠実さを持つ。
物事を正確に認識するには、結局、情報を受け取る主体である我々が学ぶしかないのである。
そして、学ばねばわからない領域で鎬を削るように技術を改善したり、世の中のために働いている人がいるのだ。そのような賢い人たちが世の中を動かしている。
その専門的な領域には、我々素人は入ることはできない。
入りたければ、それ相応に学び、経験し、理解する必要がある。
知性は、新しい世界へのパスポートである。
パスポートの無い人間は、頭のいい人の世界に入ることはできない。
残酷だが、これが現実である。
わかりやすい世界では、わかりやすい予定調和が繰り返されて、コンテンツを消費することで、人生を終えていくしかない。
新しいことは、先鋭化された世界で行われる。
それは知性だけではないかもしれない。
知性だけではないが、対話を可能にするためには、その世界の歴史的文脈の理解が必要不可欠である。
だから、本当に賢い人は分かりやすく説明するなどと、自己の怠惰と賢人の矮小化を正当化するような論調は、私は嫌いなのだ。
その分野の一流に相応の敬意を持つべきだと思料する。


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