克己心とは何か──勝ち負けではなく「設計と運用」

日常の気づき

克己心、己に克つ。

本当に良い言葉だと思う。

本当の敵は己である。
常に自分の弱さに打ち克て、
本当の勝利とは、己から逃げない事。

それが出来る人間は素晴らしいと思う。
実際、そういう人もいるだろうし、
そういう自負がある方々が、
この記事に来てくれていると思う。

私も、そうやって生きてきた。
困難な状況や、逃げてはいけない場面で
歯を食いしばって立ち向かっていった。

損な役回りをすることはもちろんあった。
自分だけ罰を受けることもあった。

ただ、自分に負けなかったと誇らしかった。

でも、この場面は果たして勝ち負けだったのか?
自分一人が意地を張って、得る物はあったのか?

「己に克つ」

この言葉は本当に素晴らしい。
でも、この言葉が独り歩きしていないか?

己に克ち続ける。
どんな困難でも逃げない。
どんな逆境でも折れずに自分の正しさを貫く。
損したっていいじゃないか。

いや。そうじゃない。
自分ばかり損をして、良い訳がない。

「己に克て」という言葉に奮起され、どれだけ自分を削ってきただろうか。

きっとこの「克己」という言葉が
まちがって解釈されているのではないか。

私は、「克己」の一側面しか見ていないのではないか。

当たり前だが、人間ってそんなに強くない。
みんなが大谷翔平じゃない。井上直哉じゃない。

克己を貫けば、負けてばかりだ。
弱い者いじめは、克己ではない。

必然として、強いものに立ち向かう、逆境に向かうのが
克己になる。だから俺も負けばかりだ。

負けて負けて、それでも自分を貫くために戦う。
その先に何があるのか。負け犬になるだけじゃないか?

もちろん立ち向かった経験は、その経験のない人間より
私たちを強くする。

たださ、相対的に少し強いからって何なんだ?
いつまでも我々は勝ち負けを追求し、一喜一憂し続けるのか?

そうじゃない。

我々は「克己」という言葉を、勝敗という一要素に集約して考えすぎではないか?

己に克つとは、困難な相手に立ち向かう勇気だけではない。
決まった時間に朝起きて、習慣的に物事に打ち込むとか、
めんどくさいけど、ちゃんと挨拶をする。時間を守るとか。
そういうことも「克己」の一要素ではないか?

それだって、どこまで突き詰めたら、我々みんな、お坊さんに
なってしまう。

別に、所作を美しくして、真理を追究して、
仏に仕えたいわけじゃないはずだ。

もう他人の価値観に踊らされるなんて
真っ平御免なのである。

己の対して失礼ではないか。
あっちの基準で喧嘩して、次はそちらの基準で勝負して。
己というモノが無いのではないか?

己というのは、「自分で決めたことを決めたとおりにやる」
自分の基準で、判断する。これが大事ではないか?

つまり、

真の克己ってたぶん、「自分の生き方を設計し、運用すること」

なのだと思う。

自分の人生をデザインして、こう生きる、だからこれをやっていこう。
その為に、これは我慢しよう。これは断ろう。
そういうことを決めて、それを実行する。
その為に、自分の意志の力を使って、選択肢を選んでいく。

自分をデザインして、思うように作っていく。
それを妄想にしないためには、日々の行動の積み重ねが必要だ。
もちろん失敗もする。失敗して修正する。

その積み重ねに全神経を費やすことが克己なのではないか。

いつまでも、他人の尺度での勝負に付き合って摩耗していくのでは、
今の自分を超えた自分らしい生き方にたどり着かない。

生き方は積み重ねである。
他人の尺度に合わせて、勝敗を積み重ねていては、たどり着けない境地がある。

自分に克つためには、まず他者との境界を明確にする。
これは相手の世界の話、ここから自分の世界。

ルパン三世じゃないが「男には自分の世界がある」
それは女も一緒だ。自分の世界があるんだ。

自分の世界を生きるために、まず第一に自他の線を引く。

人はみんな、自分の世界を生きている。
「克己」にとらわれて、少しだけ、我々はその境界が甘い。
それは、他人の負担を慮る優しさなのだが、
人を助けるばかりでは、自分の世界を構築できない。
だから線を引く。

恐れることはない。実はみんなやっている。

次に、自分の生き方を決める。
これって、なにも独立して、一旗揚げるなんてそういう事じゃない。

例えば、「人にやさしい人になりたい」でもいい。

それならば、人に優しくする場面は、前に出る。
それ以外は、あまり前に出ないという線引きができる。

人はこれを「行動指針」と呼ぶ。

時に、人と人との争いの場面に出くわすかもしれないが、
そこで関わる必要が無い事が明確になる。

だって自分の行動指針と違うから。
ここで、前に出ることは「克己」ではない。
自分の世界を作るための行動ではないのだから。

結果、「人にやさしくする」という事の為に
必要な精神力を温存できる。

「人にやさしくする」ことに集中すれば、
そのことのエキスパートにだってなれる。

あなたの周りには多くの優しくされたい人が集まるかもしれないし、
優しい人が集まるかもしれない。

そのことの良否についてはここで議論しない。
大切なのは、自分の基準に合っているかいないかである。

他には、「ある技術で飯を食える人になりたい」と決めれば、

その技術をどこで学び、どのようにキャリアを積むか、
おぼろげながら見えてくる。

これが正解でなくていい、どうせうまくいかない。

結局、現実を見て修正していく。

その技術の習得の過程で、
他人を見ている暇なんてないのだ。

もっと身近な話をすると、「貯金をする」と決めた場面。

ここでお金を何に使うか、明確な線引きが必要になる。
そもそもなんで「貯金する」のか?

家族の為か、自分の為か、なにかやりたいことがあるのか?
その土台に合わせて、どの消費活動をするのか、どれをしないのか決まる。

友人との魅力的な遊びに誘われるかもしれない。
美女に誘惑されるかもしれない。

その時、今決めた、自分の基準に沿って行動できるかどうか。

自分の基準に沿った選択の積み重ねが「克己」である。

そこからブレた行動は、「武勇伝」となるかもしれないが、
自分の将来にはつながらない。

おそらく、この様な考えで「克己」を積み重ねると、
生活は地味であり、刺激は減ると思う。

なぜなら、今までは、「克己」の名のもとに、
他人のフィールドで戦ってきた。

だけれども、これからの「克己」は、自分の世界で、
自分の力で積み上げた実績で、試行錯誤を繰り返す
自分との本当に戦いになる。

そこに刺激的な事件は起こらず、淡々と、繰り返しながら
試行錯誤を重ねていく孤独な世界になる。

この文面での「克己」は甘くない。
けれども不必要な浪費もない。
きっとそういう世界に続く素敵な言葉になる。

皆様もこちらの「克己」で生きてみるのはどうだろうか?

▶「線引き」について深掘りしたい場合は以下の記事がおすすめです。
 ・『「線引き」が、生き方の質を高める。』
▶「自分軸」について考えたい方はこちらがおすすめ。
 ・泰然自若|失敗を活かし、味方にする自分軸の作り方

「認知・思い込み」ページに戻ります

コメント

タイトルとURLをコピーしました