引っかかった一文
君子は重からざれば、則ち威あらず。
学も則ち固からず。
忠信を主とし、己にしかざる者を友とすることなかれ。
過てば則ち改むるに憚ることなかれ。
論語のこの一節に、思った以上に引っかかった。
最初の反応
育児で、妻と一緒に右往左往していては、家庭が成り立たない。
夫としてどっしり構える必要性を感じたとき、
「重かざれば、威なし」という言葉が、少しすっと入った。
なぜ引っかかったのか
ただ重々しいだけでは、君子ではない。
それはお飾りの神輿のようなもので、見せかけの重々しさを演出しているに過ぎない。
実際、そういう人は多い。
だが、それは君子ではないと思っている。
今の仮結論
重々しさの本質は、感情の起伏の少なさだと思う。
もちろん、突発的な状況では気持ちは揺らぐ。
感情を吐露したくなることもある。
それでも、自分より弱い立場の人間がいる場では、自分が最後の砦になる。
揺らいだ部分を表に出さず、現状を分析し、次善の策を練る。
その思考の時間、どうしても目つきは鋭くなる。
結果として、威が出ることもあるかもしれない。
判断基準は、友人関係や政治的な駆け引きではない。
「忠」であり、「信」である。
現代的に言い換えるなら、私はそれを**「妥当性」**だと思っている。
参考意見を募るなら、相手は自分より見識が劣る人では意味がない。
そして、判断が間違っていたなら、素直に認めて反省し、次に活かす。
結局この章は、
責任ある立場で場を引き受ける人間の心構え、思考の順番、判断材料の質
について論じているように感じた。
「学」も、学問的な知識を固めるというより、
「判断基準」や「判断のパターン」を固める、というニュアンスに近い気がする。
行動・意識への接続
言葉や態度に、反射的に反応しない。
保留メモ
孔子は、「君子に威があればよい」とは思っていなかったはずだ。
後に出てくる弟子とのやり取りを見ても、師はむしろ腰が低い。
物腰は柔らかく、見識は鋭い。
孔子という人物像は、今のところそんな印象でいる。
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