むとうの読書ノート エチカ(上) 第二部 定理四九

エチカ

【素材】
(本・記事・章タイトル・著者など)

→エチカ(上) 第二部 定理四九

【引っかかった点】
(引用 or 要約を1〜3行)

→人間精神は、神の永遠・無限なる本質の妥当な認識を有する

【最初の反応】
(読んだ瞬間に浮かんだ感情・思考)

→「真なる観想を認識できる」という自覚を持つことは危険ではないか?

【なぜ引っかかったか】

→本質の妥当な認識は、形而上学的観想でしか得られないのか?

【今の仮結論】
(今の段階での整理)


まず物の認識について、スピノザは3段階あると述べた。

①表象像による認識
②言葉による認識
③観念による認識

そのうち誤謬が生じるのは、上2つであると言っていた。
表象像と言葉によって、物事を認識することによって、
そのものについての誤った認識をすると。

①表象像とは、一言でいうと、目の前のモノと自分との関わりでそのものを認識したと思うことの様だ。

例えば、初対面の人が不機嫌な態度をとっていた時、この人物を「難しい人間」だと認識する。

これだけでは、目の前の人間を正しく認識したとは言えない。
故に、目の前の人間への理解を誤謬している。

②の言葉による認識とは、文字通りであり、例えば「犬」という
言葉を目にしたとき、各々別の自分の思う「犬」を思い浮かべるはずだ。しかし、その時に、彼我で思い浮かぶ「犬」は必ずしも一致しない。もし彼我の「犬」を一致させる必要があるのであれば、言葉だけの認識では、誤謬は発生しやすい。

以上2点による認識をもって、スピノザは、「誤謬は、そのモノを誤って認識したのではなく、ただ知らないがゆえに誤っている」と言っていた。

そのことについてはおっしゃる通りだと思う。
ただ、③について全く理解ができない。

観念を理解できた時、人には自由意志は存在しないとも述べている。
表象像と言葉で物事を理解しているうちは、自分が自由に物事を判断していると思うが、観念で認識した時、そこには必然しかないという。
人間の行動は、それ単体では、原因を持たない。様々な要素が絡み合って、その様に行動をするのである。と。

円という概念を観念的に理解して、それを表現することはもちろんできるだろう。半径3cmの円はおそらくどこに行っても半径3cmの円である。

ただ、そんな数学的な合意をもって、神の永遠かつ無限である性質が、人間の性質にあるとか、そういう風に言われても全く理解ができない。

そもそもスピノザのいう「神」は永遠かつ無限なのかもしれないが、我々が存する宇宙ですら、永遠ではないといわれている。地球は46億年、我々人類はたかだか10万年の歴史しかないのである。

その様な矮小な存在である我々の中に妥当な認識を持つとは考えづらい。

傲慢なのではないだろうか?

ただ、表面的なものや言葉でその物事を理解したと思うのは危険であるという意見は本質的に正しいと思う。

こういうモノの積み重ねが、観念で在り、神の本質に近づくのだろうか?

【行動・意識への接続(1つだけ)】
(明日から意識することを1つ)

→大学の授業か、古典的文章か、そういうモノ以外で、望んでもないのに、スケールの大きな途方もない話をされた場合は、相手の目的は、そのことに対する我々の理解ではないことが多い。

つまり、何か私たちの行動を促す作戦の一つであることが多い。
理解力を消耗させ、判断する意欲を奪い、OKと言わせたいことが多い。多くは、OKをすると自分が不利になることだ。

その時の対処は、物事をシンプルに考える事。
つまり

・自分は何をするか
・自分は何を支払うか
・結果、何を得るか。

この3点のみに集中する。
相手の話を理解する必要はない。おそらく相手も理解していない。

【保留メモ】
(今は結論を出さない問い)
→「神」という概念から離れないと、スピノザの論は、机上の空論から離れず、実用性のない物だと私は思ってしまう。
この先に、彼のいう倫理は、実用的なモノとして、展開されるのか?

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