【素材】
(本・記事・章タイトル・著者など)
→論語 顔淵第十二 四
【引っかかった点】
(引用 or 要約を1〜3行)
→内に省みて疚(やま)しからず。それ何をか憂え、何をか懼れん。
【最初の反応】
(読んだ瞬間に浮かんだ感情・思考)
→自分に疚しいことが無いなら、そうなるのかなあ。
【なぜ引っかかったか】
→仁の定義がゆがむ気がした。
【今の仮結論】
(今の段階での整理)
→
簡単に意訳する。
A 「君子とは?」
孔子 「君子は憂えず、懼れず」
A 「そのことで君子と言えますか?」
孔子 「内省し、疚しいことがなければ、
憂う事や懼れることがあるだろうか」
実に単純明快な君子の原理だと思う。
自分で疚しい事の無いように、正しいと思う選択をして生きる。
そうすれば、結果を憂う気持ちも、行動を懼れる気持ちも発生しない。
孔子はそのように言っている。
私はこの論に2点疑問を感じている。
①内省して疚しいことが無いことをもって、君子と言えるのか?
正しいことを行わず、私利私欲を論理的に正しいと定義し、今手元に富があることをもって、自分が正しいと思う人間は多い。こういう人間は自分に疚しいことが無いと思ってはいないか。
こういう人間もまた、憂うこともなく、懼れることもないのではないか。
そもそも、徳というモノが、「私欲から離れて自分の役割を全うする姿勢」である以上、内省という、主観的なモノを以て、疚しいものがないと断ずることができる物なのか?
②過去に疚しいことが無いからと言って、今後に対して憂えず、懼れずという姿勢を貫けるのか?
憂えず、懼れずは、君子たるものに必要な資質であるが、惑わない知恵も必要である。君子には「知」「勇」「仁」の3つが必要で、「惑わず、懼れず、憂えず」の3つの姿勢が必要であるとしている。(論語 子罕第九 二十八)
「知」の代わりに「内省」をして、それで疚しいことが無いからと言っても、未来は未知である。
私の疑問は、以上2点である。つまり
・内省内容が正しいといえる根拠は?
・内省が、「知」に代わり、「勇」と「仁」の土台になるのか?
という事です。
そもそも「知」とは何なのか?
もしかしたら「内省」は、孔子の言う「知」の一要素なのかもしれません。
孔子の言う「知」を研究すれば、①と②の疑問は解消するのかもしれません。
【行動・意識への接続(1つだけ)】
(明日から意識することを1つ)
→会話の中で、「AだからB」という話をされたとき、AとBの繋がりが本当に正しいのか見極める必要があります。
特にAもBも専門用語である場合は、本当に危険です。同じ業種の人間でも、専門用語は同じ言葉を使っていても、同じ意味で話していない場合が多い。
私は、専門用語を持ち出された場合、自分がその分野の専門家だとしても、その言葉の意味を聞きます。「あなたはAと言いましたが、それはどういう意味ですか?」と。
わかったフリが一番危険です。
専門家としてのプライドは一円にもなりませんが、わかった気になると、お金は確実に損します。
しっかりとした内容確認をすると、「AだからB」ではないことが多いです。往々にして「Aという隠れ蓑で、私がこのような利益を得るので、Bです」という、不動産業者が多いです。
これは不動産業者だけの話ではないと思います。
私が不動産仲介経験があるので敢えて、例として使っています。
「愛」「友人」「安全」などが、このAに使われがちです。Bには「大丈夫」「儲かる」「あなたの為になる」が入りがちです。
【保留メモ】
(今は結論を出さない問い)
→「知」という言語は論語では何を示す言葉なのか?


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