【素材】
(本・記事・章タイトル・著者など)
→論語 「徳」の考察その3
【引っかかった点】
(引用 or 要約を1〜3行)
→「徳」について孔子はどう思っているのか。「その2」に引き続き、考察していく。
【今の仮結論】
(今の段階での整理)
→引き続き、抜き出したところから考察していく。その2で扱った内容は削った。
④里仁第四 十一「君子は、徳を懐(おも)い、小人は土をおもう」
⑤同 二五「徳孤ならず、必ず隣あり」
⑥擁也第六 二七「中庸の徳たる、それ至れるかな。民少なき事久し」
⑦述而第七 三「徳の修まらざる、学の講ぜざる、義を聞いて徒(うつ)る能わざる、これが私の憂いです。
⑧同 六「道に志し、徳に拠り、仁に依り、芸に遊ぶ」
⑨同 二二「天は徳を私に生じさせた。カンタイ(人名)はそれゆえ、私に何ができるでしょう」
⑩泰伯第八 一「泰伯はそれなので至徳というべきのみです。三度も天下をもって譲り、民は得て、称することもないのですから」
⑪同 二十「天下を三分してその二を有(たも)ち、もって殷に服従していた。周の徳は、それなので至徳というべきのみです」
⑫子罕第九 一七「私は色を好むくらい徳を好む人を見たことはない」
④については、なぜ、君子は土をおもってはいけないのか不明だが、今回は君子論は言及しないつもりなので、飛ばす。
⑤について、「徳がある人物は孤独ではない、必ず隣に人がいる」のような解釈が多いと思う。でもなぜなのか?
例えば、キリストの隣に並ぶような、人間はいないと思う。
使徒がいるが、明確に隣ではなく下だろう。
徳は、神の教えの様な崇高なものではないと言う事か?
そうなると⑥も面白い。
「中庸の徳」である。
「過ぎたるは猶及ばざるが如し」とはよく聞く言葉だが、
徳もまた、行き過ぎてはいけないし、足らないのもいけないのか。
なるほど、神の教えのように至ることはできないのである。
その徳のバランスが取れていれば、同じようなバランスの者は隣にいると言っても問題あるまい。お互い「わかってるねえ」となりそうだ。
なにか、バランスのようなものが大切で、そのバランスが崩れると、徳は離れていくのではないか?
徳とは地点であるが、その地点も状況によって移っていく。
極端には徳はない。清貧にも華美にも徳は無いのかもしれない。
王には王の、民には民の、武人には武人のあるべき姿があり、そのバランスが徳なのかもしれない。
さて、では一体何のバランスが保たれると徳なのか?
⑩⑪の内容のように、天下を手中に収める実力を持ちながら、人の下にいる行為は、至徳とのことだ。先ほど話していた話も少し崩れる。
徳は至るのである。
いや至上の徳はこのようなものであるようだ。
プラトンの「国家」で正義についての議論がある。
「正義はともかく、悪は、自分が正当ではないのに、その物を自分のものにする行為だ」という話を読んだ気がする。
これもそういう話なのだろうか?
周の国の格として、実力があっても、殷の下にいることで、天下は丸く収まった。このような私欲ではなく絶妙なバランス感覚をもってして、天下国家の役に立つスタンスが、至上の徳ということなのだろうか。
今の理解だと「徳」とは
「私欲を排除した、自分の役割の理解とその実践」ということになりそうだ。
だったら⑫も納得で、「徳」の実践は、徹底した内省により自己理解と、日々の鍛錬、そして周辺の状況に合わせた対応が必須であり、人々との調和も重要だ。それほどの大変な作業であるから、色恋の方が、みんなが好きなのは仕方のない事だろう。
「徳」のあるべきスタンスは分かってきた気がする。
しかし、根っこの方針というか、進む方向はまだわからず、これで理解したと考えるにはあまりに空疎に思う。
なので、之を結論とせず、また「徳」について考えていきたい。
【行動・意識への接続(1つだけ)】
(明日から意識することを1つ)
→天下をも取れる実力を持っていても、天下を思い、私欲を排し、天下に良い形に収まることが至徳である。ここまで自分を自制するのは非常に困難である。
けれども、マイナスの感情を直情的に晒すことを控えることはできる。マイナスの感情とは、怒りや悲しみや嫉妬などである。実際それだけでも、周りの人間にはありがたい事である。
それができれば、人との関係を構築しやすい。結果として自分にとってとても良い事である。
【保留メモ】
(今は結論を出さない問い)
→「信」と「忠」は自分の立場を考える指標に成り得る?


コメント