【素材】
ラッセル幸福論 第1部 第7章
【引っかかった点】
人は不合理な伝統的道徳により、不必要な罪の意識を植え付けられていた。
理性をもって合理性な道徳を選び、内的な調和をもって、
伝統的道徳から解放されるべきだ。
【最初の反応】
子供の時に植え付けられた道徳観は、
そこまで人生を左右するのか?
【なぜ引っかかったか】
自己中心的過ぎると断じる伝統的道徳に対して、
理性をもって合理性と不合理性を判別するという方法が、
あまりに独断的だと感じた。
【今の仮結論】
まず、子供の時に徹底的に性教育を施すことは、
家同士の責任が大きかった近代では必須である。
子供の無配慮な性行為で、
家同士の文字通りの血みどろの抗争に
発展することは十分にあり得たからだ。
人間は本能的に異性との性交渉を望むように
できているのだから、
社会的必要性からそれを抑制する行為は、
十分に合理的と判断できないか?
伝統は、集団の維持の視点からみると、
合理的であることが多い。
私も、ある組織で、
不合理に見えた伝統を撤廃したことがある。
その結果、その組織の魂が失われて、
結果として私の居場所はなくなったことがあった。
ある意味、その伝統で救われている人間はいたのだ。
伝統は、伝統であるがゆえに
歴史の中で生き残った
ある種の合理性があるのは否定できない。
理性という、一個人の知見をもって、
複雑な要因が重なって練り上げられた
伝統的道徳を果たして合理、不合理と
仕分けができるのだろうか。
仕分けをすると思えば、
おそらく一生前には進めない。
あるものはあるのである。
伝統を打破すれば罪の意識もどうせ消えない。
敵もつくるだろう。
後悔もするだろう。
失敗を恐れず、失敗と付き合う。
その姿勢でいいのではなかろうか。
怒られたっていいじゃないか。
【行動・意識への接続】
自分のやることに対して、結果は予測しよう。
人を挑発すれば、攻撃される。
性行為を行えば子ができる。
当たり前の結果をしっかりと見る。
どうせ全部を見通せない。
それは人間だから仕方がない。
【保留メモ】
理性があると自分を信じれば信じるほど、
狂信的にならないか?


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