【素材】
(本・記事・章タイトル・著者など)
→老子 第50章
【引っかかった点】
(引用 or 要約を1〜3行)
→其の生を生とするの厚きを以てなり。
【最初の反応】
(読んだ瞬間に浮かんだ感情・思考)
→意味が分からない。
【なぜ引っかかったか】
→訳:生きることに執着しすぎるからである。
本当にこれでいいのか?
【今の仮結論】
→「人の生きて、動きて死地にゆく、また十に三有り」を「人民のうち、生きることに執着し、みだりに行動して死地に向かう者が、また十分の三ある。」という訳でいいのか?
「生生之厚」のうち、「之厚」が無い書もあるという。
こちらを採用し、簡単に読んでみる。
「生まれ出でて、死に入る。生の徒、十のうち三だ。死の徒も十のうち三だ。人が生きて、動いて死地に行く。これも十に三だ。それはなぜだ?生を生きるからだ。
聞くところによると、善く生を養う者は、陸上を歩いてもサイや虎と遭遇せず、軍に入隊して装備品を装備しない。
サイの角を投じる場所もないし、虎の爪が食い込む場所もないし、兵もその剣を振る所もない。それはなぜ?彼が死地にいないからだ。」
と読める。
たぶん、生を養う人は、猛獣のいるような場所はそもそもいかないし、軍隊に入隊しない。死地に行かない。行かなくていい様に、生を養うのだ。
老子はおそらく、天寿を全うできる境遇の者を生の徒と呼んだと思う。出自で決まることも多いと思う。農家の長男などは、軍隊に入るより、家族が跡取りとして引き留めて、生きながらえる可能性が高い。
そういう境遇は農家の長男以外にもありそうだ。それを生の徒と呼んだと仮定する。
一方で、出自も貧しく、明日の命も危ういもの、生まれて間もなく命を落とす赤子、そういう者を、死の徒と呼んだのではなかろうか。運命の残酷さで死ななければならなかった人は多い。残酷だが、どうしようもない死があった。老子も歯がゆくも、諦めるしかなかったのが死の徒なのかもしれない。
しかし残りの3分の1「人の生きて、動きて死地にゆく」者がいる。これは、老子は許しがたいものだったと思う。
境遇として仕方のないところもあるだろう。口減らしのために売られた者や、農家の次男坊や、あぶれ者。死ぬ必要なのないものだが、生きるために何か危険な賭けが必要なものたちだ。
この時代は、軍隊がその受け皿でもあった。
生を生きるために、人は死地に入っていったのだ。
老子としては受け入れがたい。
しかし現実として、生きるために生きた結果、多くの者が、戦争で散っていく。器として死んでいくのである。
老子としては皆できれば、樸として、生を養い、器として死地に行く必要の無い生き方をしてほしかったに違いない。
【行動・意識への接続(1つだけ)】
(明日から意識することを1つ)
→死地は、戦場だけではない。SNSも使い道を誤れば、死地になる。この一言で十分だろう。
【保留メモ】
(今は結論を出さない問い)
→老子が悔しかったという話で終えていいのだろうか?道には、死地に入らないで生きていける技術が書いてあるのか?


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