むとうの読書ノート 日本の思想 Ⅰ 三 天皇制における無責任の体系

日本の思想

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日本の思想 Ⅰ 三 天皇制における無責任の体系

引っかかった点

無限責任の厳しい倫理は、国家意思が一元化されないような体制においては巨大な無責任への転落の可能性を常に内包している。

最初の反応

むしろそういう設計なのでは?

なぜ引っかかったか

国は一人の責任で動くようなものではそもそもないのかもしれない。

今の仮結論

むしろ巨大な無責任にしなければ、日本という国家は動かない気がする。

どこまでも役職に殉じ、自分の行いのみならず、近親者や生徒などの不祥事の責任を負う大正時代の日本人の姿勢も重要だ。

日本国民たるには日本国民としての責任を担っている人物であることが必要なのではなかろうか。
地域としての人間としての役割を果たさなければ、日本人として認められなかったのでは無かろうか。

日本人は日本の土地信仰があるのかもしれない。
そして地域に根差した人間関係の広がりこそが日本の日本たるものなのかもしれない。日本の国家観の話ではなく、日本人が日本人として認識されるためのフィルターの話である。

日本の国家像、成り立ち、国の在り方と日本人が個人としてみる日本と日本人はまた別物と考えた方が良さそうだ。

一方で、日本という権威を担保するには、どの個人であっても重さが足りない。それが天皇陛下であっても。
どうしても合議の上での、連帯責任が必要なのだと思う。

天皇機関説を支持するわけではないが、日本なる存在は、その権威を保つために、権威の重しを付け替えることも平気でやるのだろう。

天皇は、國體というモノの概念に組み込むことで機能した。
ただそれだけのことで、天皇陛下一人で成り立つものでもなく、元勲や各機関のお墨付きを加え初めて担保するに足るのかもしれない。

行動・意識への接続(1つだけ)

責任は、協力体制を作ることによって分散する。
あまりに大きなことは、人にアドバイスを求める。
アドバイスを求め、真摯に教えてもらうスタイルを堅持する。それを多くの人にする。
そうすると責任は分散され、失敗しても、許される土壌ができる。

保留メモ

日本という国は、国民国家や首長国などと違い、すごい大きい保険のようなもののように感じる。だから続く?

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