【素材】
書名:論語
章:顔淵第十二 一
【引っかかった点】
己に克ち、礼に戻るのが仁。仁は己の力で行う。
礼で無ければ、見ない、聞かない、言わない、動かない。
【最初の反応】
「先進第十一」での若くして亡くなった顔淵に対する孔子の悲しみを見た後に、この話は沁みる。
【なぜ引っかかったか】
「先進第十一 三」で、顔淵は孔子に対しては質問せず、ただただ話を聞くスタイルをとっていたらしいと孔子は述懐している。この章は、そんな顔淵が行った貴重な質問「仁とは何か?」に対する孔子の答えである。
それよりも「先進第十一」で、顔淵の死に対する孔子の態度が涙を誘う。孔子は、実の子のように愛した弟子の顔淵の葬儀を先に亡くなった実子と同じようにしたかった(当時は孔子も金がなく実施の葬儀は簡素なものだった)が、弟子によって豪華に葬儀をされ、悲しんだエピソードが大変に印象的だ。
実の子のように愛した顔淵の死は、彼に大きな影響を与えたのかもしれない。
【今の仮結論】
「為政第二 三」で孔子は、「徳によって導き、礼によって統制する政治」について述べている。つまり、徳あってこその礼である。礼によって、国民は階級分けされて、細分化されて、各自の礼式が決まっていく。徳が何なのかはわからないので、おいておくが、こういう構造であると理解した。
「仁」とは礼を越えないことである。己に克って礼を越えないことを「仁」というようだ。
「子罕第九 二八」で言っていたが、「仁」は憂いなしである。
後悔しないことが「仁」である。
結果を淡々とPDCAしていくのが「仁」である。
そう考えると、「仁」は各階層、各職業ごとに決まられた職域で、その範囲で決まられた礼を則り、仕事をして生活して、礼の内側の役割を淡々とこなして、改善していくのが「仁」である。
なのでやることがとにかく地味であるが、「仁」は社会の安定と発展に必要なのだ。
そのPDCAの最中に、その枠から外れたものは見ない、聞かない、言わない、やらないは当然である。だって、PDCAの真っ最中だから。異物を入れて、それでうまくいっても再現性がないからである。
もちろん、真面目に物事に臨む結果、昇進やヘッドハンティングで役割は変わるかもしれない。そうなると礼も変化する。その礼の範囲内でまた淡々とPDCAを回すのだ。
「仁」とは実行者なのかもしれない。
「徳」とは明確に役割が違うのだろう。
【行動・意識への接続(1つだけ)】
顔淵を見習って、先生と思う人の話をとにかく聞くというのはとても勉強になる方法だと思う。ただ聞くのではなく、どのような構造で話しているのか。話に引っ掛かり(ん?と思うところ)はないか、5W1Hがわからなくなったら確認する、などすると理解は深まる。
【保留メモ】
国民を導く礼を作る「徳」とは?
その基準は?


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