【素材】
(本・記事・章タイトル・著者など)
→修養 第十二章 世渡りの標準
【引っかかった点】
(引用 or 要約を1〜3行)
→心の奥底に訴えれば、善悪の判断は下される。実際的道理の判断に任せて過ち無きものである。
【最初の反応】
(読んだ瞬間に浮かんだ感情・思考)
→そこが非常に重要なのでは?
【なぜ引っかかったか】
→画竜点睛を欠くような…
【今の仮結論】
(今の段階での整理)
→とても励みになる章である。パラ読みしていたが、途中からその文章に引き込まれた。逆境にある者こそ読むべき名文である。
拙い要約は以下である。
・自殺を武士道だ尊い事だと賞賛する風潮がある
・世の中の汚さの中で、我のみ清いとするのは聖人のすることではない。
・そうではなく、自らの境遇にあって善用できるものはないかと常に思案し実践せよ。
・重病にあっても善用はできる。逆境こそ善用することで、人を大きく成長させる。
・悪い状況であればあるほど、善用した時、効果的だが、悪い状況を自分で作るようなもの、例えば悪事を働き窮す、放蕩無頼をする等のようなことは、これには当てはまらない。
・善用の善たる基準は、私は論じない。
→引っかかった点の文章に繋がる。
新渡戸先生は転んでもただでは起きず、転んだ経験を自分の成長に活かすように工夫をするべきだ、どうしようもない状況でも、視点を変えれば得る物があると論じる。
まったく以てその通りだと思う。人はモノが無いからこそ、工夫して成長していくものだと思う。あると思うと人は工夫をしないのである。
私を成長させたものは、浅学と非力と短慮と短気と短躯だった。こう書くと足りないモノばかりだったが、足りないと工夫が生まれる。
新渡戸先生は、善用の行く先は、天下国家に役に立つものと述べていた。しかしながら、根っこの部分の「善とは何か」という問いを少し軽んじている。
これはきっと当時の日本人の根幹に共通認識としてあるものが、強かったからかもしれない。
しかし、時代は変わってしまった。
日本人は日本人の美徳とされてきたものを継続してきたか。
日本人の素養に、江戸時代から培われてきた古典はもうない。
こうなると、自分の中に、善悪の基準はもうないのである。
新渡戸先生のいう基準は、長い時間をかけて江戸幕府が醸成したものだからだ。戦国時代の善悪とは大きく異なると思う。
江戸幕府は古典的善悪論を土台に社会を構成してきたはずだ。
新渡戸先生の時代はまだ、その残滓が残っていたのではないか?
現代社会に生きる我々はそもそも実際的道理の世界から離れた世界で生きてしまっている。バーチャルな世界、バーチャルな価値観にいて、自分の能力すら正確に把握できていない状態になりつつある。
そんな中で、現代人は強烈な刺激の奴隷となりつつある。
この価値観の混沌とした時代だからこそ、善悪の判断基準を今一度、現代にある形で考える必要があるのか?それとも古典に立ち返ればいいのか?それすらもわからない時代になってしまっていないか。
【行動・意識への接続(1つだけ)】
(明日から意識することを1つ)
→善悪で考えると、答えは出ない。善悪と善用を分けて考える。善用は創意工夫と考えればよい。少しでも、足りないものがあれば創意工夫する。無ければ無いで何とかなるものだ。
SNSに毒されると、基準がおかしくなる。彼我共にSNSでバズる程の能力があることは稀で、工夫でどうにかなるレベルの団栗の背比べである。
そもそも足りないと感じる基準を「用が足りる」かどうかで判別すべき。私は157cmの短躯であるが、バスケットボールをやるわけでもマイクタイソンと戦うわけでも無いわけで、この背丈で用は足りる。
「こうなりたい」と「用は足りる」は違うのである。
その基準があると、生きやすくなる。
【保留メモ】
(今は結論を出さない問い)
→そもそも善悪の基準は定義できないのでは?


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