「寂しさ」は、時間を食いつぶす。

心の戦略

ふと、「寂しさ」について定義した。

「寂しさ」とは、一日の時間の総量に対して、人やモノに分配してきた時間の量が、その人やモノを失ったことで、余ってしまった時間と付帯して生まれる感情ではないかと考えた。

愛する人との失恋や死別は、「多大な時間を費やしてきた対象」を失うことによって、「寂しさ」を発生させる。

当たり前に、自分の時間を埋めていた存在がいないことを以て、この物理的心理的手持ち無沙汰が「寂しさ」の正体ではないか。

では、ある時期から引きこもり、ネット社会で居場所を見つけて、ネット社会に居続ける人間は、ずっとネットをして自分の時間を埋め尽くすわけだが、その時間的空白の無い存在には「寂しさ」は無いのだろうか?

当然ある。間違いなくある。

時間的空白を、それこそ用を足すのも、ペットボトルで済ますほど、時間的空白を埋める存在であっても当然に「寂しさ」はある。

むしろ増幅されているかもしれない。

ネットゲームでの人格で安心していた時期があったが、ネット社会でのギルドでの居場所は一時的な安心を与えるが、根本的な「寂しさ」を埋めることは決してない。なので、如何にその活動に時間を費やすかで、序列が決まる異常な空間が出来上がる。

むしろ、「時間的空間を何で埋めるのか」ということが「寂しさ」への健全な対処を生むのだろう。

逆説的であるが、人やモノでこの空白を埋めても、「寂しさ」が消えることは決してない。

外的要因に解決を求めるということは、自分以外のモノに「寂しさ」の解決を求めるということ。外的要因は、自分で管理できないモノだから、結局、「寂しさ」も管理できないのだ。

この場合の解決策は実は一つしかない。

自分の生活をしっかりと送ることだ。
朝起きて、家事をして、身だしなみを整えて、出かけて、仕事をして、帰ってきて、家事をして、身を整えて、眠る。

この中にあると「寂しさ」は和らぐ。

仕事以外の時間もできるだけルーティーンにした方が良い。
頭を空っぽにできるからだ。

そしてルーティーンの中でできた余白の部分はどうするか?
なにか、没頭できるものをすればいい。
没頭は自分と向き合える唯一の方法だ。
その時間があればあるほと、「寂しさ」はゼロに近づく。

残念ながら「寂しさ」はゼロにならない。
しかし、人やモノで「寂しさ」を埋めようとすると、人は離れ、モノは毒になる。結果として、人生は空虚になる。

逆に、人生の時間を自分の生活や没頭に費やすと、自立ができ、人と健全に関われて、モノは役立つ。

「寂しさ」はこうすることでしか、管理できない。
そう思います。

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