素材
→老子 第17章~第20章
引っかかった点
→乳母を貴ぶ。
最初の反応
→(注釈より引用)「食母」は養う母、すなわち乳母のこと。「食母」で、道を意味する。…そんなわけなくないか?
なぜ引っかかったか
→17章から、どうやら18章は「故に…」とつながるから、続いているようだ。19,20章も似たような話だからつながっているのだろう。でも何が言いたいのかさっぱりわからない。
今の仮結論
→以下パラ読みして私の解釈。
『(17)優れた統治者は、存在のみが知られている。統治者の統治が行き届き、何か人民に良いことがあったなら、それは当たり前で自分たちの功績だと人民が思う状態が最良なのだそうだ。
しかしながら、そのような統治は無くなり、統治者は親しまれ、恐れられ、最低になると馬鹿にされるようになる。
(18)大道が廃れてから仁義がもてはやされた。知恵が出て、虚偽が行われた、国が廃れて忠臣が現れた。
(19)聖を絶ち智を捨てれば、民の利は百倍。仁義も捨てれば、心が戻り、巧を絶ち利を絶てば、盗賊もいなくなる。素朴で欲望が少ないのがいいのだ。
(20)学ぶことなんてやめてしまえ。「あ」も「い」も大した違いはない。人の差なんて大したものはない。人々は煌びやかものや楽しいことに夢中だ。自分だけはそうではなく、人々の中で孤独を感じる。私だけがぼんやりと生きている。
私は一人、人とは違うものを大切にする。乳母のみだ。』
と読んでみた。かなりの意訳だが、枝葉を省いて、主語述語をなんとなく掴めたらと思った。
特に(17)がなぜ必要なのか、(20)の極端さは何なのか、乳母が道なのか?と悩んだ。
(18)(19)は何となくわかる。動きがあってこそ、その事例に名がつけられる。何もなく大過が無ければ、安寧の一言で終わりだが、困難があれば誰かが前に出て「勇気」を示す。このときはじめて「勇気がある」人物になれる。
(18)の大道が何なのかわからないが、きっと最上の統治者の統治なのかもしれない。
調和のとれた世界が壊れ、様々な技能がもてはやされた。仁義や技術、利益の分配など、人々は、調和のとれた世界では必要が無かったことをする必要が出てきた。
この流れは理解できる。そこから(20)がまた急だと思った。なぜ、乳母が道なのだろうか?その意味を考えるのにしばらくかかった。
20章の途中で「嬰児の未だわらわざるが如し」とある。きっと、人々の豪華絢爛を楽しむことが理解できず、生理的微笑に留まっているということで、社会的微笑には及ばないのだろう。
きっと、この一連の文章の中で、主体は嬰児である自分である。嬰児には、学問も煌びやかな楽しみもまだ無用である。ただ乳を飲むことが大切である。乳を飲むことだけが成長につながるのだ。その意味では、乳母は通るべき尊き道なのである。
この姿勢の大切さをきっと述べているのだろう。
華美な言葉でも、目立つ行動でもなく、自分の実力を増やすための行動を積み重ねる。混沌とした時代だからこそ、もう調和のとれた時代ではないからこそ、本質的に大切なことを、それのみを追い求める必要があると言う事か。
行動・意識への接続(1つだけ)
→本当に自分に必要なのは何なのかをまず考えよう。それは人それぞれ異なる。ありきたりな言葉で定義できるものではないのかもしれないし。目立つ行動ではないのかもしれない。意外と小学生で教わる内容なのではないか?と私は思う。
「あいさつをする」「ひとのいやがることをしない」「整理整頓をする」「宿題をする」「予習をする」「嘘をつかない」などなど。もちろんすべてをすべきとは言わない。ただ、道に迷ったときは、こういう基礎の基礎が強い。当たり前を重ねると得るものは多いと感じています。
保留メモ
→我々にとっての「乳母」とは?


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