【素材】
(本・記事・章タイトル・著者など)
→老子 36章
【引っかかった点】
(引用 or 要約を1〜3行)
→魚は淵より出てはいけない。
国の利器は、人に示してはいけない。
【最初の反応】
(読んだ瞬間に浮かんだ感情・思考)
→なぜ、魚は縁に飛び出してはいかないのか?
国は利器を示してはいけないのか?
【なぜ引っかかったか】
→この話の繋がりが解せない。
【今の仮結論】
(今の段階での整理)
→前、同じところを読書ノートで取り上げたので、
その時の私の意訳を置く。
(36)これを縮めようと思うなら、必ずしばらく之を張れ。之を弱めようと思うなら、しばらく之を強めよ。之を廃そうと望むなら、これをしばらく興せ(勢いづかせろ)。之を奪いたいなら、しばらく之を与えよ。これを微明という。柔弱は剛強に勝つ。魚は淵より出てはいけない。国の利器は、人に示してはいけない。
以上が36章である。
前半は、なんとなく意味が取れるし、かっこいい。
孫子っぽさもある。多分関係ないが…
そしてそれが微明であるとのことだ。
ここまでは「ああこれが微明なんだな…」で終わるのだが、
その先が疑問だった。
なぜ、魚が出てくるのか?国は利器を示してはいけないのか?
翻訳では、「魚は縁から出てはいけない。国は鋭利な統治方法を示してはいけない」と書いてある。
もちろん、魚は縁から出てしまえば、水が無いので死んでしまう。
だから縁から出てはいけないのは理解できる。
だが、翻訳通りに言えば、国が苛烈な統治方法を示したとて、滅びる国もあるが、長く続く国もあるわけだ。縁から出れば魚はほぼ死ぬが、国はそうではない。江戸幕府も賛否が分かれるが中々に苛烈だが、300年続いたのだ。
そもそも利器が国の統治方法かどうかは怪しい。
国が持つ武器や法律であるとして、それをどうして国民に見せてはいけないのか?
国が栄え、富国強兵して、統治方法もしっかりしているならば、国民にとっても良いのではないか?
なので、私は視点を変えることにした。
老子では、器とは樸(あらき)に対する人間の在り方を示している。
「ありのままの人間である”樸”」と「何かをするための存在としての”器”」
この二つを老子ではずっと出てきている。
※樸とは丸太のような物らしい。それを切り崩して使えるものしたのが器とのこと。
国家は、人として「国に利する基準」すなわち「利器」たる基準を国民に示してはいけないと老子が言っているとすれば、しっくりこないだろうか?
戦国時代である。
老子としては、器たる人間は、国家のために殉じてしまうから、という視点が強い様に感じる。
だから、「樸の範囲を超えて、器になってはいけないよ」と言っているのではないか。つまり「人間らしさを捨て、兵器のような生き方をするな」と言う事。それの比喩として、「魚は縁から出てはいけない」と言っているのではないか?
民に対して、樸でいなさい、器になってはいけない=魚は縁から出てはいけない
国に対して、民を戦争に駆り出すような基準を示すな=利器を示すな。
なのだと考える。
大きな視点としても、国が利器を示すと悪い部分があるように思う。
評価基準が画一化すると、他の才能が伸びにくい。
自然界では、環境の変化に対応できる種が生き延びる。
国家も同じで、環境の変化で、必要な能力は変わるから、様々な才能を伸ばせる環境を構築した方がいい。
モノカルチャー経済は環境の変化に対してあまりに脆弱である。
そういう意味でも、国が利器を示すのは、よくないのかもしれない。
【行動・意識への接続(1つだけ)】
(明日から意識することを1つ)
→人は器ではない。何かの物事に対して結果を出すために存在しているのではない。だから失敗しても、くよくよしない。くよくよしすぎて器になってはいけない。それはただの役割だから、役割として受け止めよう。くよくよしたら樸に戻って、酒飲んで笑って寝よう。人間としてのあなたは、別に結果を出す事だけが価値ではないのだ。
【保留メモ】
(今は結論を出さない問い)
→そうなると、前半の微明って何の話だった?関連性ある?

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