【素材】
(本・記事・章タイトル・著者など)
→エチカ(上)第三部 定理九
【引っかかった点】
(引用 or 要約を1〜3行)
→精神は妥当・否妥当関係なく観念を持ち、自己の有に固執しようと努める。この努力は、精神だけに関する時は、意志と呼ばれ、精神と肉体が関連する時は衝動と呼ばれる。したがって衝動とは、人間の本質そのものにほかならない。
衝動と欲望との相違は、意識を伴った衝動であるか否か。
これにより以下の事が分かる
誤→善と判断し、努力し・意志し・衝動を感じ・欲望する
正→努力し・意志し・衝動を感じ・欲望するから善と判断する。
【最初の反応】
(読んだ瞬間に浮かんだ感情・思考)
→よくわからないが、ここを丁寧に考えると彼の言いたいことが分かりそう。
【なぜ引っかかったか】
→善ありきではなく、何かの為に行動する結果、善と判断される。
それは、どのような話に繋がるのだろう?
善は、肉体的衝動を土台に、自己の有に固執する為に行う行動の
中にあるのか?
【今の仮結論】
(今の段階での整理)
→何を言っているのか理解できない方も多いと思うが
私もほぼ理解できていないので問題ないです。
スピノザはそのまま、肉体的活動により、精神的活動が連動し、
大なる完全性と小なる完全性へ移行するという。
大なる完全性へ移行することを「喜び」、小なるモノへの移行は「悲しみ」と定義した。
精神と身体が同時に喜びを感じたとき「快感・快活」と呼び、
それが悲しみを感じたとき「苦痛・憂鬱」と呼んでいる。
スピノザ曰く、基本的感情は「喜び・悲しみ・欲望」の3つのみという。
つまりどういうことなのか?
皆目見当がつかないが、見当をつけないとならない。
見当を付ければ理解が深まる。
外れたら修正して学べばいい。
つまり、感情は結果である。
欲望は、自己の有に固執した結果、精神が身体に行動を働きかける。
その結果、欲望は生まれて、行動の結果、大なる完全性か小なる完全性に移行する。その結果、喜びか悲しみが生まれるらしい。
精神は自己の有に固執する→欲望→体が動く→行動→結果として大か小の完全性へ→喜びor悲しみ
の流れの様だ。
さきほど【引っかかった点】で整理したように
誤→善と判断し、努力し・意志し・衝動を感じ・欲望する
正→努力し・意志し・衝動を感じ・欲望するから善と判断する。
という事であるから、
努力と意志は、自己の有に固執する精神的な活動なのかもしれない。
衝動・欲望は結局、行動を引き起こし、喜びか悲しみを与える。
その結果、
どうであれ、自分の体と精神は、調和がとれる。これを以てその人物にとって「善」というモノになる。
という解釈でいいのだろうか?
自己の調和がとれないような行動は、人間は取らないというようなことをスピノザは言っている。
最初は、じゃあ自殺は?と思ったが、整合性が重要であり、
精神単体も身体単体も問題ではないのかもしれない。
精神と肉体の整合性を合わせるために、肉体を崩壊させる。
また、その逆として、精神を崩壊させる。
これは当人によっては善で在りうる。
スピノザのいう「善」はおそらく、社会的な善ではなく、
個人がこれが「善」であると認識する過程の話をしている。
それならば、これほど、無駄を省いた説明は無いのかもしれない。
もっとももう少し無駄を加えていただいた方が理解は早そうだが。
【行動・意識への接続(1つだけ)】
(明日から意識することを1つ)
→人としての整合性という部分は、人の生き方の本質を示している気がする。自己の自己への解釈と自己評価は、自分の行動と必ずしも一致しないが、それは問題ではない。
自分の中で整合性が取れているか否かで、その人の安定感が異なる気がする。行動と言動が一致している人が必ずしも、安定しているわけではない。その人の、目指す基準が高ければ、その人はその状態に安住できない。
逆の人間もそうで、自分の中で整合性が取れていれば、言っているとやっていることが違っていても、安定している人はいる。
スピノザの言う完全性は小さく小さく…どこまで小さくても成り立つ。
でもズレれば必死になって相手は行動する。
その際、小さい完全性でいい人間は、どのような事でもやってくるだろう。だから、人の完全性を揺るがすようなことを安易にやるのは、恐ろしい事なのであると思った。
安易なアドバイスですら、人の精神と身体の完全性をずらしてしまう。
【保留メモ】
(今は結論を出さない問い)
→個人の「善」と社会の「善」はどこかでぶつかる。
スピノザとしては、どのように考えるのか?社会の「善」ありきで
個人の「善」は形成されるのか、個人の「善」は歪まされるのか?
それとも、「善」は昇華されるのか?
どのように考えるのだろう?
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