【素材】
論語 八佾第三 七
【引っかかった点】
「君子は争うことが無い。あるとしたら弓の時だけだ。弓を射る時は、会釈をしてから堂にのぼり、競射のあとは堂を降りてから敗者が酒を飲まされる。その争いまでが君子だ」
君子は争う所なし。必ずや射か。揖譲して昇り、下って飲ましむ。其の争いや君子なり。
【最初の反応】
君子の戦い方というか、君子たるものの心構えなんだなと思った。
【なぜ引っかかったか】
敗者が酒を飲まされる、という部分が引っかかった。
【今の仮結論】
私の解釈としては、書いてある通り「君子は戦わない」である。
なので、スポーツの場面でも勝ち負けでその後の待遇を変えないと思う。
競射の競技で全力を出し合った後は、酒を飲み交わして親交を深める、が正しいと考える。
なぜなら、どのような状況でも君子は戦わない=敵を作らない、であり、
負けたから酒を飲ますという行為、つまり罰ゲームが、人によっては屈辱になりかねず、
いらぬ恨みを買う可能性があるためだ。
君子はまず戦わない。
競うならばルールが明確に決まっている競技で競う。
競う=争うではない。
勝ち負けが明確で、後の遺恨が起こらない前提で行うのである。
これですら、君子としては、格が落ちる行為なのかもしれない。
重責を担う君子が、自ら腕を振るい優劣を競う行為に乗り出す時点で、
君子の役割から逸脱しているのかもしれない。
【行動・意識への接続】
どのような行為が敵を生むのかは、正直わからない。
けれども、私心を持って他者に行為を強要することは、
敵を作る行為になりやすい。
あいさつをする。
敬語を使う。
当たり前のマナーを当たり前にこなしていく。
それが、君子の第一歩か。
【保留メモ】
そもそも君子の役割とは?
※本記事は『論語』を参考にしています。
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