前回の記事で、「誠実」と「嘘」は背反せず、同時に存在できるとし、「看板」と「言葉」と「行動」との乖離を「嘘」とするも、生きていくうえで、その「嘘」を「夢」として売る行動が必ずしも悪とは言えないと論じた。
商売をする上で、ある程度「夢」を与えて、購入を促す行動は、ある意味当然の営業活動であり、やっていない営業主体は存在しないとも言える。
例えば広告について考える。
化粧品のCMは、元々絶世の美女を起用して、その商品を使えばあたかもその美女に近づけるが如く強烈な「夢」を視聴者に印象付ける。他にも、この商品を買えば、あなたはお金持ちになれます。安心です。強くなれますなどなど。その様な強烈な印象を与え、購入を促すのが、広告というモノである。
これをしなければ、如何に誠実な商品を作っても、そもそも消費者に届かない。
なぜなら、売れている営業主体はそれをやっているからである。
ジャングルでは、植物が高さを競うのは、日の光を求めてである。日光を浴びて、光合成をしなければ木は死んでしまう。広告を通じて「夢」を何度も何度も視聴者に見せる行為は、日の光を求めてどこまでも高く伸びる木に似ている。伸びなければ淘汰される。
では、「誠実」な広告を出す者は必ず淘汰されるのか?それもまた違うと思う。
私は誠実であるという部分と、広告活動を適切に行っているというのは分けて考えるべきであると考えます。
現代社会の広告合戦の中で、過度な期待を与える広告がある中で、必ずしもその広告が、視聴者に刺さるとは限らず、広告が視聴者に届くか否かも、どれほど資金をかけたか、作戦を立てて広告活動をしたかにかかっている。
そもそも「夢」を掲げれば掲げるほど、現実的でなければ、胡散臭さも出てくる。
だが、例えば、ディズニーランドも「夢の国」と謳っている。しかし、そこで売られているものは「夢」そのものではない。現実に存在する施設、接客、演出、物語、空間などによって作られた、高度な体験である。「夢の国」という言葉は、その体験を表現するための言葉なのだと思う。
ここで疑問がわいてくる、事業主体は、実体からどれほど離れた「看板」で「夢」を見せることが適正なのか?「嘘」ではなく「夢」として許されるのか。
「誠実」な事業主体が、「誠実」な事業として許されうる「実体」と「夢」の距離の適正な距離はどの程度なのか?
そういう場合に、自分で悩んでもここでも答えは出ないと思う。結局、その距離が許されるか否かも、購入したお客様の中にしか答えは無い。自分が「誠実」か否かは、購入後の行動に関係するのかもしれない。
そう考えると、少し構造は変わる。
私は、「看板」と「言動」と「行動」の「乖離」を「嘘」とした。
ただ、「夢」は必ずしも、「行動」や「言動」と「乖離」していない。
お客様が「看板」を見て信じて購入した後、初めてその「夢」は評価される。
ただ、だから安直に「嘘」のある状態で「夢」を見せるのも「誠実」とはもちろん言えない。
だが、仮に契約時期に「嘘」では無かったが、履行する段階で「嘘」になった場合はどうだろうか?「誠実」なのだろうか?
そこらへんは宅建業法でも、民法でも規定されているので、その法に則って物事を進めていくことになるだろうが、そういう事態も生起しうる。
という話でも思ったのが、不動産など実体のある物の売買でもトラブルは起きるのであるが、パーソナルトレーニングや英会話など、実体のないサービスはそれ以上に、「嘘」は生まれやすい。どんなサービスでも、その受講者がその効果を得ることは保証できないからだ。
例えば、教育分野で考えたらどうだろうか?
受講者はどのレベルになれば、契約を履行できたと事業者は認められるのか?実際、結果を担保している事業者はいるのだろうか?どのようなカリキュラムを組んで、やらせたとしても、結果は受講者の資質によるところが多いのではないだろうか?英会話教室で実際に英語を話せるようになる人間は一体どれほどいるのだろうか?話せるとはどのレベルなのか?というか受講者も事業者もそのゴールの認識はあるのだろうか?
そういう視点で考えれば、
大学受験の予備校は、「誠実」になりやすいと思う。
結果が明確に出るからだ。志望校に受かるか否かである。国家資格の資格取得のための教育機関も「誠実」になりやすい。一方で、民間資格になるとまた、「誠実」という面で疑わしいものになる。
民間資格そのものが、目指す「夢」を果たすかどうか疑わしい。
国家資格はその資格を取得することで、その職業に就職することが可能になることが多い。ただ、民間資格はその因果を保証することが少ない様に思う。そして民間資格の教育機関は、その民間資格合格のために指導することと、試験代で収益を得ていることが多い。だが、民間資格がどの程度、その業界で認知されているかは、その資格を取得しようと考える人間にはわかりづらいのも問題である。
例えば、パーソナルトレーナーに成るための資格に「NESTA PFT」という資格がある。これは北米にも拠点がある「NESTA」という機関に「パーソナルフィットネストレーナー(PFT)」として認めてもらうための資格である。
この資格は、パーソナルトレーナー業界では広く認知されていて、この資格があると喜ばれることが多い。私もパーソナルトレーナーに成るために取得した。当時は陸上自衛官だった。仕事の合間を縫って、転職のために資格取得の努力をしたものである。
結果として言えば、転職活動にNESTA PFTはあまり役に立たなかった。
転職活動で重視されるのは「指導歴・実績」である。まったく役に立たなかったわけではないが、この資格を取って、パーソナルトレーナーに成れるかどうかは、個人の資質による。
もちろん私としては、この資格を取得して良かったと思っている。トレーナーを目指すような人間ならだれもが知っているようなことを、体系としてまとめられているので、トレーナーをやるうえでの知識の漏れが無いかを確認できたこと、トレーナー同士ではこのような資格すら持っていない人間が多いので、少しだけ優越感が得られること。ただ、この資格を取れば、トレーナーに成れるというモノではなかったと言う事は、重ねて申し上げる。
そもそも民間資格は教養のためのものと言われれば、反論のしようも無いのですが、私にはそのようには見えない。やはりどこか資格を取れば、有利になる、仕事が増えるとそういう「夢」を見せて受講を促す内容が多い様に思う。
一方で、先ほど「誠実」になりやすいと述べた、大学受験の予備校はどうだろうか?
大学受験の合否だけで考えるならば、なるほど誠実かもしれない。
だが、こういう業界は、「大学合格すれば人生バラ色」だと主張しすぎてはいないか?
良い大学を出れば、良い人生を送れる保証はない。本当に将来に悩む子供を預かるのであれば、そのほかの選択肢を視野に入れて相談を受ける必要はあるのではないか?ただ、それは「大学受験合格指導の専門家」なのか「進路相談の専門家」なのか、そういう部分を混同した暴論なのかもしれない。
私はどうしても、「子供を預かる」という視点で考えてしまうので、そのような発想になる。高校生を預かるならば、進路を導くならば、まずはどのような将来を描けるのか、そこに向かう場合はどのような生活が見込めるのか、そういうものを一緒に考えたい。ただ、これは私の個人的な欲求であるように思える。
大学受験の予備校にそこまで求めるのはおかしいのかもしれない。
ただ、一点あげるならば、大学受験に合格することは大学への入学につながるが、卒業後の人生に何一つ保証をしない。故に、大学受験を合格したからと言って、大学入学以外の何物の保証にはならない。「良い大学→良い企業→良い人生」という「夢」を大学受験に勝つことで夢見るならば、それはかなり危険な賭けであると思う。
大学受験を受ける子供を数多く預かる「大学受験合格塾」のようなものは、そのような現実の中で、多くの「夢」を見すぎている子供と両親と接して、契約を結ぶだろうが、
本当にその商売は「誠実」なのだろうか。
プロの目から見て、どう考えても不可能なことにチャレンジしている存在に「それは厳しい」と言わないことは「誠実」なのだろうか。
私はその業界に勤めた事は無いので、わからないのだが、一年浪人して、予備校に通ったことがある。その学校のイメージで恐縮だが、特進クラスは基本的な基礎からみっちりと叩き込まれたが、その下のクラスになってくると雲行きが怪しくなる。人気講師は確かに話が面白く、説明もわかりやすい。だが気が付けば、「ああ、わかりやすかった」で終わった。でも分かった気というのが本当は一番恐ろしい。「わかった気になること」と「理解して答えを出すこと」は天と地ほどの差がある。浪人生であった時からこの事象は恐ろしいと思った。
・本気で偏差値を上げるためには、基礎から積み上げていく地道な鍛錬が必要である
・だが、人気講師はそういうものではなく、わかった気にさせる先生もいて、そういう先生は人気がある。売り上げにつながる。
という状態だ。
どちらの先生もある意味ニーズに答えて「誠実」である。でもどっちが誠実なのだろう。ちなみに私の英語を劇的に伸ばした先生はその厳しさ故にすげえ嫌われていた。そしてやらされたことは本当に地味で苦しい事ばかりだった。
ただ、「誠実」という観点で求められるものを提供しているという点ではどちらの先生も「誠実」なのかもしれない。
さて、実体のないものを取引する業界での「誠実」を考えたが、その中でも特に、
この様な何かを教える事業についての「誠実」さと言うのは、一定の型があるように思います。
契約時
① お客様の今いる場所を示す
② お客様のニーズの位置を示す
③ 商品を利用した場合、現実的に行ける場所を示す
④ ①②③を示したうえで、どこを目指すか決める
⑤ ④を目指す上で必要な労力を示す
⑥ 契約する
契約後
① 定期的にお客様の現在地を示す
② ①の状況を踏まえて、契約時の目標をどうするか相談する。
③ ②の結果を踏まえて、今後の方針を決める。
④ 必要なら目標そのものを変更する。
この繰り返しを実施するのが最低限「誠実」を担保する上で必要な気がする。
要は、「お客様を迷子にしないこと」だと思う。
ここらへんは私がパーソナルトレーナーとしてお客様に対応するときに、強く意識していることである。
つまり「何処にいて何処に向かうのか」そういう地図を渡すことが大切です。そうすれば「夢」が「目標」になり「現実」に近づきます。
そのような態度であれば、「夢」に「嘘」は極力無くなるような気がします。
これは、反転して考えると恐ろしい事でもあります。
事業者は、地図を描けなければなりません。
これは当然の事と言えば当然なのですが、当然故に難しい。
では、地図を描くためには何が必要なのか。
まず、自分が何処にいるのかを知らなければならない。
自分には何ができて、何ができないのか。
どこまでならお客様を連れていけて、どこから先は自分の能力の範囲外なのか。
つまり、事業者自身が自分の地図を持っていなければ、お客様に地図を渡すことなどできないのです。
これは本当に大変な事です。
自分の能力や考えは、自分が考えている以上に、日々変化しています。
これは、その分野に対する誠実さが高ければ高いほど、変化が速い様に感じます。「本当にこの方法で良いのか?」「あ、このようにすればもっと伝わる」「もしかしてこれはこの方法でやればもっと効率的では?」と日々発見、研鑽を重ねるからです。また、少しその仕事から離れた場合も同様に変化があります。離れた分だけ、能力が欠乏し、慣れでできていたことも出来なくなるからです。
意外に、その慣れの部分を見返した結果、新たな発見が見つかることもあります。
要は、事業者自身の地図もまた、日々変化していると言う事です。
この地図の変化は、提供する事業の地図も変化させます。
もっと素晴らしい位置まで描けるのか、実は全然狭い地図になったのか。
それは事業者の日々の変化に影響します。
故に、事業者自身の地図も日々修正しないといけません。
つまりどうするべきか。
① 自分の能力を常に高める努力をする
② 自分の能力を実際に試す
③ その結果を確認する
④ 結果を踏まえて、自分がどうするか考える
⑤ また①に戻る
この繰り返しをしなければ、地図は描けません。
自分の地図が描けて、その上でお客様にお渡しする地図ができます。
故に、その地図は、広告として非常に重要です。
この地図は、100のことを30で描けば、誰も読まない。
100のことを120で描けば後々大変な事になる。
100のことを100で描けば、市場に出して正当な評価を得られます。
「誠実」な事業者であろうとする人の多くは、100を実現可能な30で表現しようとしがちです。しかしそれは「誠実」ではありません。これもまた「謙虚」ではなく、「不誠実」かつ「嘘」であり、誰も見ないモノになります。
「誠実」な事業者になるためには、100を100で描く能力が必要です。
これは簡単な事ではありません。常に自分の能力を試し、評価して、その上で、お客様に提供できる地図を正確に描く必要があるからです。
さて、ここまで「誠実」な事業者について論じましたが、
この考え方は、「誠実」な生き方を考える上でも、同じように考えることができると思います。
つまり、「誠実」に生きるためには、その都度、自分の「できること」「できないこと」「やってはいけないこと」をその都度更新しないといけないと言う事です。
常に相手に、更新した100の自分を示すことが相手に誠実な態度と言えます。
この100というのは、0から100まで能力値があって、あなたの能力を100まで上げなさいという意味の100ではないです。
等身大の今の貴方の能力を100とした時に、30しかないと謙遜したり、150あると誇張することを戒める者です。
なにか頼まれた時にあなたの100が「腰が痛くて動けない」ならそのまま伝えるのが、100です。それが「誠実」なのです。無理に腰が痛いのに「やれます」というのは「不誠実」です。
「出来る能力があるがやりたくない、なぜなら」と言う事も100です。意思も含めてあなたの能力だからです。
これは我がままに生きるとは違うと思う。
大切なのは、自分の能力と意思を正確に理解して、「できる」「できない」「やる」「やらない」を伝えることだと思います。
さらに言えば、「誠実」になるためには、これに状況も付与したうえで、自分で判断することが大切です。「やりたくないけど、お金が無いから、やる」というのは、ご自身の中で、整合性が取れているなら「誠実」です。
これが捻じ曲げて「この仕事は、世間の役に立つから」と付け加えると自分に「不誠実」である、仕事をくれた人にも「不誠実」です。その人は「ああ、この人は世間の役に立つ仕事がしたいんだな」と勘違いしてもっと嫌な仕事をくれるかもしれません。
「誠実」に生きることは、非常に難しい。なぜなら、自分を理解した上で、相手や状況を考慮に入れて、自分はどうなのかを正確に知る必要があるから。
そしてその自分の意見をそのまま伝える必要がある。
そういう積み重ねが「誠実」につながるのだと思います。
これは大変なようですが、そんなに深刻に考えることでもないと思います。
最近の事例で言えば、私で言えば
「家事育児はしんどいけど、妻の役に立ちたいから、やる」というのは、100です。
これが「妻への愛があれば、なんでも楽勝」なら嘘です。それは自分への嘘になります。自分に誠実であれば、適正に対処できます。「だからまあ、疲れるよ」と。これが後者であればそうはいきません。「疲れないはずだ」となるから。
「誠実」は日常化すれば、回りまわって自分も相手も環境も無理させないツールになるのかもしれません。
←「「嘘」と「誠実」、では「誠実」に生きるには?」に戻ります。


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