「嘘」と「誠実」、では「誠実」に生きるには?

心の戦略

「誠実」と「嘘」について考える。
生き方に「嘘」は無い方がいい。その方が「誠実」だと思う。
ただ、「誠実」と「嘘」は背反しない。同時に成立する。

【「誠実」私利私欲をまじえず、真心をもって人や物事に対すること。また、そのさま。「誠実な人柄」(デジタル大辞泉より引用)】

「嘘」が「誠実」の「私利私欲を交えず、真心をもって人や物事に対すること」の役に立っていれば、

「嘘」は必ずしもゼロにする必要は無いのである。

もちろん「誠実」が生きていくうえで、唯一絶対に必要な特質ではないのは理解している。

ただ、行動と言動が一致した生き方は、心と体の一体感を生み、逆は、心と体の分離を引き起こし、

ある種の精神的なストレスを体に与える傾向があると思う。


とかく生きていくうえで、「誠実」というのは難しい。

例えば、私はパーソナルトレーナーとして生計を立てていた時があった。

私が思うパーソナルトレーナーとしての「誠実」さは、

・できること
・できないこと
・やってはいけないこと
を明確に伝えることだった。

例えば、骨折やそれに類する症状が疑われる場合は、私は診察はしない。私は医師ではないからだ。なので、判断をしない。医師に診てもらうことをお勧めする。

トレーニングについても同様であり、トレーニングを通じて「できること」と「できないこと」は明確に伝える。

パーソナルに限らず、対話の正解は、自分の中にはない。

答えはお客様の中にあるのであり、そこを探り当て、現実的な実現まで伴走するのがこの仕事だと思っている。

そのために、自分の中のトレーニング理論の幅を広げていく。解剖学の知識や、色々な業界の方の生活リズムや考え方なども聞きながら理解していく。なぜなら、結局、今の「体」を作るのは「その人の生活習慣」でしかないからである。「継続」でしか、体は変化しない。所詮はパーソナルはその「起爆剤」でしかない。運動や栄養や睡眠そして習慣の知識を得て、実践をする第一歩と私は捉えている。もちろんずっと高額をもらいつつ、生活に密着し、伴走し続ける形もあると思う。

ただ、私はトレーニングとは「自分が体と向き合うことで楽しさを見つけるもの」だと思う。

当然、トレーニングが嫌いで、高いお金を払ってでもずっと付きっ切りで面倒を見てほしいという方の気持ちも理解できるし、対応する。

現に、5年以上継続していただいているお客様もいるわけで、答えはそれ一つではないのはごもっともである。

一時間いくらで何も考えずに一定以上の成果が出る投資だと思えば、それはそれでごもっともだ。

ただ、私個人はそうであっても、説明を丁寧にしながら、常にそのトレーニングは何が目的で、どういう方向性でやっているのかを説明している以上、パーソナルは知識と実践を経て、卒業するものだと思っている。

なぜなら、私としてはゴールを「自分と体の対話の習慣化」とみているからである。それが一番楽しいと。

原理原則がわかってくれば、トレーニングは自分でできる。自分自身がそういう気質の人間なので、パーソナルはどうしても割高に感じる。

ただ、これは、私自身が何か能力を得るときに高い代償は払っても、習得後は、自分でやりたい気質の人間であるゆえに思う事である。

要は、「トレーニングその他、生活習慣は自分で組み立ててこそ本当にたのしめる」という信念があるのである。

そうすると、生活を成り立たせるための、事業としてのパーソナル事業と自分の考えにはどこかで「乖離」が出てくる。


私はこの「乖離」を「嘘」と言っているのである。

もちろん、私が先にあげた通り、

・できること
・できないこと
・やってはいけないこと
をお伝えしたうえで、それでもいい。ずっと見てほしいと言われ、それに対応することは「嘘」ではない。とても光栄なことだ。

そうではなく、生活にの為に「できないこと」「やってはいけないこと」を伝えずに「できます」と伝える行為から発生する契約、そこに「嘘」が発生すると思う。

こういう「嘘」は「誠実」な生き方に存在してはいけないが、生きるためにありがちな「嘘」である。

これは私が半生にわたってお世話になった武道という分野にも当てはまると思う。「武」の本質は、何であろうか?相手を倒す、勝負を制す、場を治めるなど多々あるだろうが、根っこは「力の実用」である。どんなに上品で上等なお題目を唱えようと強くなければ無意味である。上等なお題目は、「武」でなくても実践出来る。

「力の実用」があって「品性」があれば立派である。でも「力の実用」なく「品性」があるのでは軟弱であり、「武」としては意味が無い。

ただ、こと「武」から「武道」に目線を移すと必ずしもそうではない。
技術の伝承であったり、伝統の継承であったり、組織規模の問題であったりと必ずしも、「武」を体現する者が、「武道」で上にいる必要もないのである。

考えれば当然で、「武」は個人の問題だが、「武道」は武道団体の物であり、組織の利害で動いているのである。

「武道」団体が売っているものは必ずしも「武」ではない。

・大会や試合という試す場所
・段位による認定
・鍛錬する場所など
・その団体の武道的技術
などである。

大変に結構なことだと思う。

そもそも、現代社会において「力の実用」が必要な場面はほぼない。

むしろ「力の実用」の部分を除外し、それ以外の部分で武道的エッセンスを抽出して、日常で活かす方法を伝えた方が遥かに実践的である。

ただ、それが、「武道」である必要性があるかどうかは別だと思う。

そういう意味では、「護身術」の置かれている立場は、もっと苛烈である。

「護身術」はその名の通り、「護身」の「術」である。それ以上でもそれ以下でもない。

私は、とある護身術のインストラクターの資格を取ったことがある。その護身術の何に惹かれたのか。それは「身を護るということを素人に徹底する」という信念を感じたからである。

護身術の真髄は「危うきに近寄らず」であり、「何が危険で、何が安全か」を認識して生活することである。

その判断と対処を、何の知見の無いもの、例えば子供などに真摯に伝えることを重視していた故に、その団体のインストラクターの資格を取ったのである。(今は失効)

ただ、「護身術」と「武道」を絡めると、その「護身」という考えが非常に陳腐に感じてしまう。

なぜか?

武道的素手及び武器術的要素は、護身という視点において、数ある選択肢の一要素に過ぎず、そこにのめり込むと本質を見誤るからである。

私は、陸上自衛隊という組織に6年在籍したのだが、「武」についてこれほど実践的な組織は、警察くらいだろうか?

その中で、素手での戦いが生起する可能性は一体どれほどあるのだろうか?

個人的には、自衛官より、警察官の方が、素手での制圧の経験があるだろうと想像するが、それは知らない。

ただ、真っ当な感性を持っているならば、武器があるなら武器を使う。私はそう思う。武器を使っていいなら武器を使うのが当たり前で、なぜ、拳に固執するのか理解ができない。どんなに拳を鍛えても、棒切れ一つの方が破壊力があるのだ。

武器を使えない状況が生起するのは、ほとんどがその職務の完遂の為に必要故であり、その制約が無ければ、普通はより安全に武器を使う。それが本質である。

そういう視点で見ると、「護身」の本質とは、「どうみても安全な所で、安全な人と生きていく」ことであり、そこから外れていくことは本質的に「護身」から離れていく。

どこまで行っても「生兵法は怪我のもと」なのである。
護身に大切なのは、現代社会においては、法の知識と意思の力である。

護身術講座を受けたからと、夜の街で好き勝手やっては、自分の身を護ることはできない。夜遊びをしないことが最大の護身術である。

ここまで説明して、それでも武道的能力も身に着けたい、そういうニーズに答えるために、武道的技術「も」指導する団体ならば、「護身術」を指導する団体としては「誠実」かなと思う。

ここまで、「パーソナルトレーニング」「武道団体」「護身術」と話したが、結局は「誠実」というものと向き合うにはどうしたらいいかという話である。


自分一人が「言行一致」と言い、「言う事」と「行動」が一致している、故に俺は誠実だと宣うことが、本質的な「誠実」ではありえない。

なぜなら、「誠実」とは、相手がいて初めて成り立つ概念である。

一番、誠実に接すべき存在は「自分」かもしれないが、自分が「誠実」であると証明するためには、相手が必要である。

相手がなくては、「誠実」が試される場面は生起しない。故に、「誠実」は相手あっての物である。

二者、三者と登場人物が登場し、関わる中で、「誠実」が試されるのである。

そして自分が生きるためには、生活に資するものが必要で、その資するものを得る「営業」で、「看板」と「言動」と「行動」の「乖離」が生まれる。

その「乖離」とどう向き合うかが、人を「誠実」か否かを分けるのである。

「言行一致」すれば「誠実」という独りよがりな問題ではないのだ。

大切なのは、その自分のついた「嘘」と向き合う事である。
我々がついている「嘘」は、適当な「嘘」ではない。生きるための必死な「嘘」である。

「嘘」を減らせばいいのか、それも分からない。
その「嘘」が「夢」となり、多くの人を夢中にすることもある。

ただ、私はその「嘘」が我慢ならない人間であり、自分の中で「嘘」が無い様に生きていくことを模索している。

それだけの事。

そして、その「嘘」を商売の種にするのなら、その影響を誰が受けて、どのような結果になるのかは、本来見るべきではないかと思う。

身体に不調をきたしたり、精神を病ませたり、生きる気力を無くさせたり、そういうものを「嘘」で巻き起こしたりしていないだろうかと。

お客様が「求めるもの」と「得られるもの」が一致しているのだろうかと。
過程が正しいのかどうか、結果はしっかり伴うだろうか。

「売った」相手は素人、所詮わかりはしないのである。
分からないからこそ、購入する。「夢」を見ている。


今掲げている「看板」は、自分の信念に「誠実」だろうか。

それは、生きていくうえで、ずっと残る課題であると思う。

また、蛇足になるが、そのことを好きでやっている、練習しているという姿勢は尊重できる。そこに「嘘」は無いからである。

ダンスが好き、サッカーが好き、柔道が好き、読書が好き。そういうものは尊重すべきで、大いにやればいいと思う。

続きです:「嘘」と「夢」と「誠実」、「夢」を売るのは「不誠実」か?


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