むとうの読書ノート 論語 子罕第九 六

読書ノート

【素材】
(本・記事・章タイトル・著者など)

論語 子罕第九 六

【引っかかった点】
(引用 or 要約を1〜3行)

吾が少き(わかき)や賤し(いやし)。

【最初の反応】
(読んだ瞬間に浮かんだ感情・思考)

孔子の遜り(へりくだり)の話か?

【なぜ引っかかったか】

それだけなら論語で載せる意味はあるのか?

【今の仮結論】
(今の段階での整理)

大宰、子貢に問うて「夫子は聖者か。何ぞ其れ多能なる」
子貢曰く「固に(まことに)天之を縦(ゆる)して将(ほとん)ど聖にして又、多能なり」
子、之を聞いて曰く、「大宰は我を知れるか。吾が少き(わかき)や賤し。故に鄙事(ひじ)に多能なり。君子は多ならんや。多ならず」
(孔子の門人の)牢曰く、「子云う、『吾試(もち)いられず。故に芸あり』と」

率直に読む

大宰、子貢に「孔子先生は聖者か。なぜそれ程、多能なのか」と尋ねた。子貢は「本当に天がこれを許して、先生はほとんど聖者でありつつ多能なのです。」と答えた。
孔子はこれを聞いて「大宰は私を知らないのか。私は若い時、賤しい身分であって、だからこそ、取るに足らないことがたくさん出来るのだ。君子は、多能になるのか。多能にはならない。」と言った。
牢は言った「先生は『私は、士官がかなわず、だから芸達者なのです』と言った」と。

私は、これを最初読んだ時に、孔子が自分を卑下して、謙遜した話かと思った。現に門人の牢もそのように解釈しているように読める。

ただ、それなら論語に記述する必要があるのかが、非常に疑問だった。

孔子「貧乏だったので食うためにいろいろやったので、いろいろできます」←この話が何かの教訓になるだろうかと疑問だった。

「君子は多ならんや」この言葉にこの章の意義が凝縮されているように感じた。

つまり、君子は、多能である必要はないのである。
そもそも多能であることをもって君子であるとか聖人であるとか評価することがずれていると孔子は言いたかったのではないか?

君子に求められる素養のうちに良く挙げられるのが「仁」である。
仁者は、「礼の中で役割を果たす」人間であると私は解釈している。

この人物が君子かどうかは、何が出来るではなく、今何をしているかである。

つまり、芸の多寡で人を君子かどうか測ることが、
評価軸としてずれている、と孔子は言いたかったのではないか。

「何を出来るのか」ではなく、
今この瞬間に「どんな役割を果たしているか」、
「どんな責任を負っていて、どんな生き方を全うしているか」、

孔子の君子評価は、その中でしかないので、
多能であることは、評価基準から外れるのかもしれない。

だが、そんな孔子の金言も、門人にも理解されず、「孔子は若い時、身分が低かったので、やれることが多いのですと言ってました」という理解しかないように見えるのも、教育の難しさともいえる。

論語の解釈は非常に難しく、構造的な理解が必要だと思う。
そこに至らないと、表面的な言葉に右往左往するのが、中国古典あるあるに思う。


【行動・意識への接続(1つだけ)】
(明日から意識することを1つ)

君子というと仰々しいが、
人が人間社会で生きていくうえで考えると生きやすくなる情報が
詰まった逸話だと思う。

つまり、

やらなくていい事
・だれにも負けない特技を持つ
・抜けの無い完璧な能力を身に着ける

すべき事
・自分の役割を理解する。
・その役割を取捨選択する、見極める。
・役割を果たす。

という風に考えるべきなのかもしれない。
皆、やらなくていいことを頑張ってやっているのかもしれない。
けれども、本当にすべき事は、こんなものであり、
しかも自分の役割の見極めこそが一番重要かもしれない。

大切なのは、人間関係において自分の役割は常に変化するし、
全ての事象について自分が責任を持つ必要はないと言う事。

真面目な人ほど、人のすべきことも背負ってしまいがちだ。
けれども、自分の事は自分でやらなければ、自分の中で解決はしない。
他人の物は、役割も責任も結果も他人の物である。

自分には自分の物がある。
ただ、それを見極めることが何よりも大切で、
技能があると言う事は、二の次なのかもしれない。

【保留メモ】
(今は結論を出さない問い)

低い身分から身を立てた人は結果として多能である可能性は高いと思うが、まあ、それを考えることは、今回の内容とは視点がずれるか。

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