【素材】
(本・記事・章タイトル・著者など)
論語 顔淵第十二 一
【引っかかった点】
(引用 or 要約を1〜3行)
己に克ち礼に復る(かえる)を仁と為す。
【最初の反応】
(読んだ瞬間に浮かんだ感情・思考)
この文脈で、「己に克つ」とはどういう意味なのか?
【なぜ引っかかったか】
「仁」と「礼」の関係が浮き彫りになる大切な場所だと感じた。
【今の仮結論】
(今の段階での整理)
顔淵、仁を問う。
子、曰く「己に克ち礼に復る(かえる)を仁と為す。一日己に克ち礼にかえれば、天下仁を帰す。仁を為すこと己に由る(よる)。人によらんや。」
顔淵曰く「其の目(もく)を請い問う。」
子、曰く「礼に非ざれば視ること勿れ。礼に非ざれば聴くこと勿れ。礼に非ざれば言うこと勿れ。礼に非ざれば動くこと勿れ。」
顔淵曰く、「回、不敏と雖も(いえども)、請う斯の語を事とせん。」
以上が、全体の流れである。
まっさらに考える。
顔淵は仁について孔子に尋ねた。
孔子は言った。「己に克ち、礼に戻ると仁を為せます。一日、己に克ち、礼に戻れば、天下は仁に帰ります。仁を為す事は、自分次第です。他人の事は関係ないです。」
顔淵は「其の細目を教えてください」といった。
孔子は答えて「礼で無いものは見ない。礼で無いものは聞かない。礼で無いものは言わない。礼で無いもので動かない。」といった。
顔淵は、「私は、頭の回転が速くない愚か者ですが、その言葉通りにしたいものです。」
と読んでみた。
此処で言う「己に克つ」とはどのようなことを言うのか。
一日己に克ち、礼に戻るとなぜ、天下は仁に帰るのか?
非常に疑問です。
まず、「己に克つ」ということについてですが、
前提として、私は、「礼」は「役割の範囲」と解釈しています。
なので、「己に克つ」と言う事を、「自分の役割から逸脱しない」と
解釈しています。
礼の土台には「信」と「忠」があります。
人間関係の中で自然発生する「役割」を継続させるものは「信」と「忠」だからです。この「信」と「忠」に近い行動を続け、礼を守ると結果として「徳」のある人間に見えるようです。
「徳」の話は脱線ですが、「己に克つ」という言葉の意味としては、「役割の範囲から逸脱しない自制心」という意味で違和感はないと思います。
「仁」というモノを私はそもそも
「複雑な人間関係で定義される礼の範囲を逸脱せずにその中でPDCAを重ねる姿勢」と解釈していますから、これで「己に克つ」「礼にかえる」「仁を為す」がつながります。
後に出てくる、「仁を為す事は自分次第。他人は関係ない」という部分にもつながります。自分を中心とした複雑な人間関係の中で、己の役割を定義し、その中で役割も全うする姿勢ですから、人は関係ないわけです。
でも、自分と相手の関係で、相手が不義を為す場合はどうなのでしょう?
その場合も後の言葉につながると思います。
「礼で無いものは、見ないし、聞かない」これに尽きます。
自分は礼を尽くすけれども、相手が尽くさないなら、見ないし聞かないのです。
「己に負けて」相手をののしったり、攻撃したりもしません。
「己に克つ」というのは、感情の抑制も含むのでしょう。
もしかしたら天下というのは、
天下国家と広くとらえるのが普通ですが、
心のありよう、精神世界かもしれません。
もっともこれは私の拡大解釈が強すぎますが、複雑な人間関係で礼を守ると、自分の人間関係、そして自分の関わる世界では、穏やかな部分が多くなりそうです。
役割を為すとは、そういう事でしょう。彼我の状態も安定するはずです。
自分の見える世界は、仁に帰る。つまり、自分がかかわる範囲では、皆、自分の見える範囲で役割を為し、過不足なく満ち足りて生活している。そういう風にみえる世界が生まれる。そう言う事なのかもしれません。
後半部分は私の拡大解釈です。
一見すると、過剰な感情の発揚もなく刺激のない世界に見えるけど、その実、皆が役割に没頭して、様々なものが発明されるような環境かもしれません。
どう思いますか?
【行動・意識への接続(1つだけ)】
(明日から意識することを1つ)
「己に克つ」を「逃げない」「諦めない」「根性を出す」に限定すると、その生き方はかっこいいけど、生きづらくなります。そして想像以上に折れやすいです。
「己に克つ」を「役割の範囲を明確にする」「責任範囲を明確にする」「決めた範囲を超えない」このように切り替えると、地に足着いていい感じです。そして、根性論に逃げない苛烈な生き方になります。
前者は環境を他者依存にしています。後者は環境を自分で作ります。
「己に克つ」の解釈一つでも世界の見え方が変わります。
そういうものを理解するともっと生きるのが楽しくなるかもしれません。
【保留メモ】
(今は結論を出さない問い)
世界全体を見るような人はいないのか?そしてそれは可能なのか?


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