理解することと、責任を問うことは別である

心の戦略

少し前から感じていた違和感

私は昔から、政治や歴史の議論を見ていて少し違和感があった。

会社の話になると、多くの人は組織論で考える。

社長一人の意思で何でも決まるわけではないことを知っているからだ。

市場環境がある。

資金繰りがある。

顧客がいる。

株主がいる。

現場事情もある。

組織が大きくなればなるほど、トップはむしろ自由ではなくなる。

多くの場合、

「好きなように決める」

というより、

「限られた選択肢の中で、どれを選ぶか責任を負う」

という方が実態に近い。

ところが政治や歴史になると、不思議と話は単純化されやすい。

「あの人の暴走だ」

「あいつが全部悪い」

そんな言葉をよく聞く。

もちろん、指導者には責任がある。

だが私は、そこで思考を止めてしまうことに少し危うさも感じている。

人は複雑なものを単純化したがる

国家や社会は、一人で動くほど単純ではない。

制度がある。

歴史がある。

経済がある。

支持層や利害関係がある。

国民感情もある。

政治家には理念や信念があるだろう。

だが理念だけで国は動かない。

そこには、その時代なりの力学が存在している。

政策も同じだ。

後から見れば疑問に思える政策でも、当時の状況や危機感、組織や社会の要請の中で選ばれていることがある。

だが人は複雑なものを理解するとき、どうしても「顔」を求める。

英雄が国を救う。

悪人が国を壊す。

この物語は分かりやすい。

感情も整理しやすい。

だから私たちは、巨大な構造や複雑な背景より、誰か一人の名前に原因を集めたくなる。

その気持ちは分からなくもない。

単純化は楽だからだ。

しかし、理解は免責ではない

ただ、ここで誤解してはいけない。

事象を理解しようとすることは、責任を曖昧にすることではない。

むしろ逆だ。

理解と免責は別である。

市場が悪かった。

環境が厳しかった。

選択肢が少なかった。

それらは事実かもしれない。

しかし、だからといって職責が消えるわけではない。

責任ある立場とは、まさに制約の中で決断する立場だからだ。

社長には社長の責任がある。

管理職には管理職の責任がある。

国家指導者にも同じことが言えるだろう。

私は、

「全部あいつのせいだ」

という理解にも違和感があるし、

「時代や構造の問題だから誰も悪くない」

という理解にも違和感がある。

現実は、そのどちらでもない。

人は構造の中で選択する。

そして、その選択には責任が伴う。

私はその両方を見たいと思っている。

この癖は、政治だけでは終わらない

そして私は、この話は政治だけの問題ではないと思っている。

なぜなら、人間は一度「悪役を作って理解する」癖を覚えると、それをあらゆる場面に持ち込むからだ。

職場でもそうだ。

「あの上司が悪い」

「あの部下が悪い」

家庭でもそうだ。

「相手が悪い」

「理解がない」

もちろん責任はある。

理不尽な人もいる。

だが、そこで思考を止めてしまうと、私たちは背景を見なくなる。

なぜそうなったのか。

どんな事情や構造があったのか。

どこに限界があったのか。

それを考えなくなる。

私はそれを少し怖いと思っている。

なぜなら、その癖は他人だけではなく、自分自身にまで向くからだ。

人を乱暴に理解する癖は、やがて世界そのものを乱暴に理解する癖になる。

だから私は、まず理解したい

だから私は、まず理解したいと思っている。

なぜその判断が生まれたのか。

どんな制約があったのか。

なぜ止まらなかったのか。

それを理解した上で、なお責任を論じたい。

その順番を、大事にしたい。

理解することは、許すことではない。

責任を曖昧にすることでもない。

ただ、人も社会も構造の中で生きている。

それを見ようとする姿勢は、政治のためというより、

人間を乱暴に扱わないために必要なのではないか。

私はそう思っている。

単純化は楽だ。

しかし、理解は深まらない。

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