【素材】
(本・記事・章タイトル・著者など)
老子 第46章
【引っかかった点】
(引用 or 要約を1〜3行)
禍は足るを知らざるより大なるは無し
【最初の反応】
(読んだ瞬間に浮かんだ感情・思考)
その通りだなと。
【なぜ引っかかったか】
安直なSNS界隈の消費主義への批判に走りがちだが、
自分の現状を見直す良い言葉だなと思いました。
【今の仮結論】
(今の段階での整理)
まず原文をご紹介します
天下に道あらば、走馬は却(しりぞ)けて以て糞す。
天下に道無からば、戎馬郊に生む。
罪は欲す可(べ)きより大なるは無く、咎(とが)は得んと欲するより大なるは無く、
禍(わざわい)は足るを知らざるより大なるは無し。
故に足るを知るの足るは、常に足る。
注釈より、戎馬とは戦に使う馬らしい、戦争が激化して、資源が無くなり、雄馬がいなくなれば、雌馬が軍馬として使われ、軍馬が子を産む状態になるという意味らしい。
注釈だと、「走馬は却けて以て糞す」は「走馬は払い下げられて、農耕馬になる」と解釈しているが、私は別に、「早馬は必要が無く、其処ら辺で糞をするのみ」でいいと思ってる。
これは、老子的な、器の生き方と、樸の生き方の話だと思う。
馬は馬らしく、速さを求められるでもなく、のんびりそこらで糞をたれるという描写は樸らしいと感じた。
以上の描写を含めて、自分なりに解釈すると以下の様になる。
「天下に道があれば、早馬も、無用になり、そこらで糞を垂れる。
天下に道が無ければ、軍馬としてメスですら徴用されて、郊外で子を産むことになる。
罪は、「ほしいと思うべきだ」と思うより大きいものは無い。咎は「自分のモノにしようと欲する」より大きいものは無い。禍は足るを知らない事ことより大きいものはない。
だから、「足るを知る」を理解し、足りると思えば、常に足りていると思える」
前半部分は、なにか、女性の社会進出が進んだ日本への皮肉にも感じる。
これについては深く言及しない。
後半部分は、どう考えればいいか。
解釈によって、毒にも薬にもなると思う。
何かを欲しいと思うことが罪だとするならば、人間は何もできない。
どこまでも現状で足りてますとするならば、虜囚でも足りることになってしまう。
さすがに老子もそのような生き方を啓蒙してはいないと思う。
なので
私としては、筋違いの願望を持つことを戒めるものだと考える。自分のモノではないものを欲しがったり、実力に見合わないものを望むことが罪になりやすい。そして、他人のモノでも自分のものに使用すれば、それは咎を受ける結果になるということ。
その根源には、「足るを知る」という事を理解できていないことがある。心と体が満たされる状態というのは、刺激的な状態ではない。
人々は、享楽的で刺激的な行動で満足を得ようとしがちだ。
その様な行為を追求するとキリがない。終わりが無い。
最終的で究極的な刺激は「死」しかない。
逆に、心と体を満たす状態には、実はそこまでモノは必要ではない。それは人それぞれだろうけど、今あるモノ+αで満たされ得る状態だと思う。
そういった自分なりの基準がいつまでも定まらず、刺激を求め過激なことに身をゆだねる生き方は、やはり災いをもたらすと思う。
【行動・意識への接続(1つだけ)】
(明日から意識することを1つ)
正直、「足るを知る」って感覚を自分で持つって難しいと思う。
過酷な環境で、それでも「ああ、やっていけるな」と思う感情。
これが「足るを知る」と考えると、危険だと思う。
基準がない人間は、洗脳されて「足るを知る」が抑圧されている状況でもいいのだと錯覚する。私もブラック企業や自衛隊を通して、明らかに消耗しながらそれでも「自分は足るを知る環境にいるのだと」錯覚した。
足りてないから人格が削れてしまうのだ。
今の若者は「足る」を知らないとか安直な批判があるかもしれない。
でも、そんな批判にさらされても安直に今の環境が「足るを知る」に足る環境だとと思わない方がいいと思う。
「足るを知る」状態は素敵だが、現実的に足りない人はたくさんいる。
無理やり「足りる」と認識を捻じ曲げると、人は削れる。
【保留メモ】
(今は結論を出さない問い)
「足るを知る」に足る環境を、老子はどのように考えているのか?


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