最近、「無能」という言葉をよく見かけるようになった。
職場でもネットでも、かなり軽く使われている印象がある。
ただ、この言葉には少し引っかかるものがある。
便利すぎて、その場の思考をそこで止めてしまうからだ。
▶ こんな記事もあります。
・ 人を見る目を養う|偏見を捨てよ
・ 話が通じない人は、最初から“違うゲーム”をしている
・ 思いやりのススメ|正しさよりも、届く言葉を
■ 「無能」は説明ではなく終了宣言
「無能」と言った瞬間に、
なぜできないのかという問いは消える。
どこで詰まっているのか、
どうすれば改善できるのかという視点も消える。
残るのは「この人はダメだ」という結論だけになる。
つまりこの言葉は、
説明ではなく“終了宣言”として機能している。
■ それでも能力差は存在する
一方で、現実として能力差があるのも事実だ。
どれだけ環境を整えても、
吸収の速さや適性には差が出る。
本当にどうしようもないように見えるケースが
存在するのも否定はできない。
ただ、それでも問題は残る。
■ 一言で固定すると視点が消える
その状態を「無能」という一言で固定してしまうと、
そこから先の視点がすべて消える。
本来であれば分解されるべきものが、
一括りで終わってしまう。
- 配置の問題なのか
- 教育の問題なのか
- 業務設計の問題なのか
- それとも適性の限界なのか
こうした検討が抜け落ちる。
■ 「無能」という言葉が増える環境
面白いのは、この言葉が頻繁に出る環境ほど、
余裕がないケースが多いという点だ。
余裕がある現場では、人はもう少し細かく見る。
できない理由を分解し、構造として捉えようとする。
逆に余裕がないときほど、判断は速くなり、同時に雑になる。
人にラベルを貼る方が早いからだ。
つまり「無能」という言葉は、
相手の能力というより、
使っている側の思考状態を映している場合がある。
■ 「切り捨てられる環境」という前提
もう一つ現実的な話をすると、
「無能」と切り捨てることで済む環境は、
実はそれなりに恵まれている。
人を入れ替えられる余白がある。
代替がいる。
組織がその前提で回っている。
そうでない環境では、
「切る」という発想自体が成立しない。
だからこそ、
そこで使われる言葉はより重要になる。
■ 結論:思考をどこで止めるか
結局のところ、この話は優しさの問題ではない。
正しさの問題でもない。
どこで思考を止めるかという問題だと思う。
「無能」という言葉は、
その思考を止めるにはあまりに便利すぎる。
だからこそ、
安易には使わない方がいい言葉なのかもしれない。
▶ 「無能」と切り捨てる前に、まず自分の目利きの力を。
・ 人を見る目を養う|偏見を捨てよ
▶ 話している土俵が違えば、誰でも「無能」に成り得る。
・ 話が通じない人は、最初から“違うゲーム”をしている
▶ そういう言葉より、人に届く言葉を。
・ 思いやりのススメ|正しさよりも、届く言葉を
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