【素材】
(本・記事・章タイトル・著者など)
→ ラッセル『幸福論』第1部 第8章
【引っかかった点】
(引用 or 要約を1〜3行)
※「正しい」「共感した」ではなく
👉 引っかかった/ムッとした/違和感があった点
みんなから虐待を受けているとすれば、たぶん、その原因は彼自身にあるのである。
【最初の反応】
(読んだ瞬間に浮かんだ感情・思考)
→
被害妄想に対する4つの公理は、よくできている。
要は「自分は自分が思うほど立派ではないし、悪くもない。」
そして「他人は自分が思うほど、自分に興味がない」ということを自覚せよということ。
でも挙げている例は、本当に被害妄想なのか?
紳士の社交場での小競り合いの応酬への処世術的意味合いが強いのではないか。
【なぜ引っかかったか】
(自分の経験・価値観・今の状況との接点)
→
本当の被害妄想は、私の例で言うと、「背が低い」ことに起因する。
起因するが、それが原因ではないのだ。
「背が低い」ことは、場合によっては不利になるが、人が遠ざかる本当の原因は
「背が低い自分が人より劣っている」と自分自身が思い、人から遠ざかること。
確かに「背が低い」ことで、他人から馬鹿にされる、
劣った人間として扱われるといった蓄積はある。
これは明確な被害である。
しかしそれを別の人間も行うと決めつけることが「被害妄想」である。
「被害妄想」の入り口には「被害」はあったのである。
入口の「被害」を絶対的なものとして受け取り、
その姿勢を堅持することが「被害妄想」の入り口だと考える。
ラッセルの例で言えば、社交場での悪口、被害を受け続けているという妄想。
評価されないという屈辱。
上流階級の人間にとって、
これは妄想ではなく、実際にある被害なのではないか?
自己認知と実際の世間での評価の乖離により、人は実際に傷つく。
上流階級の人間にとって、これは被害妄想ではないと思ってしまう。
そして、「無いものは無い」と割り切れず、
無いことに苦しみ続けている人間の「被害妄想」への救いにならない公理ではないかと思ってしまう。
【今の仮結論】
(今の段階での整理)
→
ラッセルが言うように、被害妄想は
「自分が思ったような成果を得られないこと」に対する
期待と結果の整合性を合わせる行為だと思う。
一般的に被害妄想が強いとされる人間は、
実は自分の能力が分かっているのではなかろうか。
正当な方法では、なぜか評価されない、空気がおかしくなる。
その結果を他人のせいにするのが、被害妄想だと思う。
他責の論理は、他人から見れば破綻していることが多い。
被害妄想への唯一の処方箋は、今の自分を構造的にみる事。
他人がどうこう言っていても、この視点が無ければ、被害妄想は終わらない。
安易な責任転嫁で人生を終えてしまう。
先程、私は「背が低い」といった。
「背が低い」私は「弱く」「みじめで」「見栄えが悪く」「女にもてない」と思っていた。
これはすべて事実ではない。
「背が低い」と、競技や状況によっては不利になる。
場合によっては致命的だが、「背が低い」ことによって有利になる場合もある。
女性にとって、男性の背丈は重要な相手選びの一要素であるが、全てではない。
その一要素のみを取り上げて「女にモテない」と断ずるのは、あまりに早計である。
そう考えると、「弱い」ので「強くなりたい」のであれば、
低身長が活かされる競技を選ぶ、知性を活かす場で活躍するなどの作戦を選べばよい
(私はそうしなかったが)。
「モテたい」ならば、身長を気にしないか、
または高身長が圧迫的で苦手という女性と交流をすればよい。
このように作戦が立てられて、行動し、結果を見て軌道修正していれば、
妄想ではないのである。
被害妄想のための整合性を、
PDCAを回すことによって実践するのであれば、
それはもはや「妄想」ではないのかもしれない。
【行動・意識への接続】
→「妄想」こそ実現可能な「目標」になりうる。「被害妄想」は実現できない悩みが複雑に絡んだもの。そこを小さく小分けして、自分で変えられるものを少しずつ改善すれば、「妄想」が「目標」に変換され実現に近づくかもしれない。悩みは改善されていくかもしれない。
【保留メモ】
→被害妄想にとらわれている人が、合理性を判断できるのだろうか?
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