「場」が人を磨く/居心地が悪い時は成長のチャンスである

ポジティブ思考

あなたは、ふと「居心地の悪さ」を感じたことはありませんか。

「居心地の悪さ」は、自分のいる「場所」と「人」を理解することで解消できます。

著者は、陸上自衛隊、武道系部活、不動産業界、警備業界etcとそれなりに多くの場所を経験して、それぞれの「居心地の悪さ」を感じました。

乗り越えた「居心地の悪さ」もあれば、馴染まなかった「居心地の悪さ」もあります。

ただその「居心地の悪さ」は、ただただ悪いというものではないと考えます。

それぞれの環境をここでは「場」と表現しました。

その「場」その「場」で、その場の「目的」とそこで生きている人々で練り上げられた「ルール」が存在します。

「居心地の悪さ」を克服するためには、この「目的」と「ルール」を理解することが必要です。

理解の上で、周りを見渡すと、「居心地の悪い」のは自分だけではないとわかるはずです。

「場」を理解して、自分にどう活かすか。

その一助となる記事になれば幸いです。

この記事は以下の構成になります。

  • 場の「目的」と人々の「ルール」
  • 場に馴染むために必要な事→「役割」を理解する
  • 場を自分にどう活かすか→人と場への敬意が視野を広くする

人が2人集まれば、それが「場」となります。

「場」に居る人間は、基本的に全員「居心地の悪さ」を多かれ少なかれ感じています。

その「居心地の悪さ」を軽減するには、「場」というものを理解するのが近道です。

人間は、社会的な生き物なので、「場」に居心地の悪さを感じながら、「場」を必要としています。

まず「居心地の悪さ」は自分だけが感じているわけではないと理解することが大切です。

「場」には「目的」が存在する

すべての「場」には「目的」があります。

職場であれ、家庭であれ、友人同士の集まりであれ、駅周辺であれ、人間が集まる場所はすべて「目的」があります。

その「目的」は、歴史の積み重ねで出来ています。

例えば、友人同士の集まりだとします。

一見フランクな関係ですが、4人集まるならば、誰がどのように仲良くなったのか、なぜ集まるのか、そこを理解するには、そこに至る文脈を理解することが必須です。

その中で、今回集まる「目的」は、付き合いの長い2人の喧嘩を残りの2人が仲裁するという「目的」で集まった「場」なのかもしれません。

「目的」を理解すれば、自分の役割も察することができるかもしれません。

「場」にはルールが存在する

「場」の目的がある以上、目的を達成するために「ルール」が存在します。

例えば、駅は多くの人があつまる「場」ですが、これは街と街を繋ぐ都市計画があり、人の流れの動線を狙った商店街がありと、人の動線に対する行政の狙いも民間の狙いも複雑に絡み合った「場」であり、関わる人間も膨大で、多くの人には移動が「目的」となりますが、人が数多く集まる以上、そこには人々が「目的」を満たすために決めた「ルール」が存在します。

厄介なのが、「ルール」は明文化されたものだけではないということです。

駅であれば、駅の所有者がいて、駅のルールは明文化されています。

日本国内では、法というルールがありますので、それを守れば刑務所にお世話になることが無いでしょう。

まず「居心地の悪さ」を克服するためには、明文化されたルールをよく理解することが大切です。

問題は、明文化されていない「ルール」である

これが一番厄介であり、我々の「居心地を悪く」していると考えます。

この明文化されていない「ルール」は、人々の合意もなく存在しています。

実は、そういったルールを作るのは、わたしであり、あなたであり、その「場」にいるすべての人です。

一人一人が、その「場」にあって、「目的」を持っていて、その目的を達成するために明文化されていない「ルール」を持ち出しています。

個人の「目的」場の「目的」が同じ方向性であれば、比較的「居心地が良い」ですし、違えば徐々に「居心地は悪く」なります。

「場」の「目的」は、大まかに決まっていることに対して、場の「ルール」は、個人の「目的」や「ルール」によって、大きくブレていきます。

居心地よくその「場」に馴染むためには、その「場」の「目的」を理解して、その「場」を構成する人間一人一人の「目的」や「ルール」(と思って押し付けてくるもの)を理解することが必要です。

その先に、「場」の「目的」とは別に「場」の「ルール」が見えてきます。

「場」の目的やルールが朧気ながら見えてきたらそこで自分の「役割」は何なのかを考えましょう

基本的に自分の「役割」を演じている限りは、「居心地の悪さ」はほとんど感じないはずです。

では、どうやって「役割」を見つけるのか。

武道や日本舞踊の世界の「守破離」に近い発想が必要です。

つまり最初は、自分の考えを棄てて周りに合わせる「守」の段階があり、見えてきた役割に工夫を加え基本から少し派生したこともできる「破」の段階を経て、己の考えをもってその「場」に貢献できる「離」という段階に至ります。

「自分はこういう人間だから」とか「あの人の態度が気に食わない」とかそういうことを考えていると、「場」の実情は、見えてきません。「役割」もわかりません。

所詮は、どんな人もその「場」にいて一緒に「居心地の悪さ」に苦しんでいる人間なのです。

固定化された「役割」など存在しないので、その場その場で自分の「役割」を判断する必要があります。

「場」の歴史とルール、そしてその「場」にいる人間のこれまでの行動と傾向を参考に、今後の「場」の向かう方向を予測することが大切です。

自分の考えを一旦脳の端っこに置いておいて、フラットに場と人々の行動を見ていると、何に困っていて、どうすれば「場」の人が助かるか見えてきます。

そういった視点から「役割」を考えたとき、その「役割」を全うすれば、「居心地の悪さ」をその瞬間は感じないはずです。

逆に独りよがりに自分の「役割」を錯覚し、それを全うしようとすると、「場」の中で邪魔な存在となり、次第に直接的にまたは間接的に排除されていきます。

結局のところ、「守破離」どの段階であっても、独りよがりでは居心地の悪い状態は続きます。

人が2人集まれば「場」が生まれます。

独りよがりでいていい場所は、ご自分の部屋のみです。

「場」の中にあって、「居心地の悪さ」を感じないために必要なものは「敬意」です。

どんな人に対しても結局のところ、敬意なく人となりを見れば、理解は難しくなります。

敬意とは、その人を人として尊重することであり、過大にも過小に見ないことです。

立場や態度の大きさなどで、人を過大に評価したり、過小に見くびれば、ありのままの自分の「役割」を見つけることは出来ずに、結局独りよがりな「役割」のようなものに固執する結果になります。

「場」で「居心地の悪さ」を解消する試みを続けるということは、最終的に「自分」という存在を見つめなおす機会になります。

「居心地の悪さ」から逃げ続けてきた人は、自分のありのままを見る勇気をもって行動したとき、いままで「役割」から逃げてきた分、全うできる「役割」も無く、任される「役割」もないことに驚愕するし落胆するかもしれません。

「場」にあって、本当の「役割」がある人は、今まで逃げずに責任を全うした人です。

最初は「役割」なんてなくて当たり前です。

まずは、敬意をもって「場」と「人」を見ることが大切です。

そして「役割」が人を育て、育った人が「場」を育て、人々が「役割」をもって活躍する場を作ります。

その時、「居心地の悪さ」はおそらくほとんどないと思います。

実はこの回りくどい道が、「居心地の悪さ」から救われる最短の道であると著者は思っています。

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