負けて悔しいあなたへ/勝ち負けにこだわると生きてて辛くなるという話

ポジティブ思考

この記事の目的→すぐに何でも「勝ち負け」で考えてしまうあなたがもっと生きやすくなること

負けて悔しい、負けが忘れられない。

そういった方へ書いた記事です。

「勝負」ですらないモノの在りもしない「勝ち負け」に心を囚われてはいないでしょうか。

「勝負」だと思っているソレは、本当に「勝負」なのでしょうか。

「勝負」は事象であり、一瞬の出来事です。

勝つこともあれば負けることもあるでしょう。

結果にこだわることに意味はありません。

大切なのは「勝負」の文脈です。

何を準備して、どのように競い、何を得て、これからどう活かすか。

誹謗中傷への対処や犯罪行為への対応などそう言ったものは「勝負」ではありません。

「紛争」や「事故」です。

誹謗中傷で被害を受けたことは「負け」ではありません。

災害の被災者を「負け」とは言いません。

身体的特徴を馬鹿にされたことも「負け」ではありません。

そこに「勝負」は無いからです。

まず「勝負」というものをしっかり考えましょう。

「勝負」と考えると色々なイメージがあると思います。ここでは「勝負」を以下の条件で定義します。

1.ルールが決まっている

2.勝敗の着き方が決まっている

3.1と2について両者の合意がある

以上の3点です。この3点が無ければ「勝負」とは呼べないと思います。

 なぜならこの3点が無ければ勝敗が付かないからです。ここから外れると終わりのない「闘争」「紛争」となり、収拾がつかない状況になりがちです。そう考えるとどうでしょうか。「勝負」と呼ばれるものは、非常に限られてきます。世の中でこの定義での「勝負」と呼べるものは、ほとんどないと思います。私は「試験」と「スポーツ」くらいしか無いと考えます。

種類相手の悪意ルールの合意勝ちの条件
一人相撲×××
勝負×
紛争・闘争×

明確には「勝負」ではないかもしれません。

よく受験生は、「試験を受けるすべての人間が相手」だと言われますが、要は条件を満たしてさえいれば合格するので、合格が勝利という観点で考えるとむしろ相手は、試験官や試験作成者かもしれません。

一般的に試験では、他の受験者を妨害する必要がないはずですから、「試験」での「勝ち」を得る方法は、試験対策の情報収集と対策を練る過程のみが重要な様です。

ですが、我々は試験に不合格だった場合、合格者に負けたと錯覚します。合格者に劣っていると感じがちです。大学受験では、合格者に何もかもが負けて、人生でも負けたかのように錯覚します。

 しかしながら、これもまた、ただ単に事前準備の善し悪しが違ったのみとは言い切れず,受験者間で試験の方法や条件も違ったりします。(大学受験でのAO入試や推薦、または金銭による裏口入学、宅建試験でも実務2年以上の経験者には5点免除がある)

 結局、人物の尊卑が合格不合格には関係は無いと言えます。

あるのは、試験に対してどれだけ対策したかの多寡のみです。

「勝負」といえばスポーツもそうだと思います。明確なルール、勝利条件、お互いの合意があります。負けると本当に悔しい素晴らしい「勝負」と言えます。

 ただ、スポーツは基本的に「娯楽」ですので、プロスポーツ選手を除いて、いつまでも勝ち負けを引きずるのは異常だと思います。

さらに言えばスポーツの勝敗が生活を左右するプロスポーツ選手でさえ、一つの負けに拘泥するような精神性では、そのキャリアは長くはない様に思います。

「勝負」の結果はルール次第

 著者は武道歴が長いので、武道や格闘技の視点からスポーツを考えます。

一括りに格闘技と言ってもレスリングや柔道などの組技系、ボクシングやムエタイ、空手などの打撃系、両方を取り入れた総合格闘技(MMA)、プロレスリングなど、様々な住み分けがあります。

皆、強くなるという一点を目指して格闘技の門を叩くと思いますが、選ぶ物によって戦いの戦略は大きく変わります。

この「強さ」という尺度が実は曲者でして、余程の練度の差が無ければ、ムエタイルールなら他競技選手よりムエタイ選手が一番強く、ボクシングルールならば他競技選手よりボクシング選手が一番強い、レスリングならば他競技選手よりレスリング選手が一番強いという結果になります。

さらに言うと、柔道はオリンピックの影響で、ルールが大きく変わりました。きっとルール変更前の選手は変更後の選手より変更前のルールで試合をすれば勝率が高く、変更後のルールで試合をすれば、変更後の選手の方が勝率が高いでしょう。ルールで強さの序列は簡単に変わります。

 比較的ルールの縛りが無い総合格闘技においても、寝技の状態で相手を持ち上げて叩きつける「バスター」が有効か反則か、相手が四つ這いの状況に対しての顔面を蹴り上げる行為「サッカーボールキック」が反則か否か、肘での打撃…など、様々な制約がある中で、そのルールに最適化が出来た総合格闘技の選手が一番勝率が良くなるといった結果になります。

 今では世界最高峰の総合格闘技のイベントとなった「UFC」の初回はなんと「反則なし」でした。

しかしながらUFCは興行であり、目つぶし金的を狙う姿があまりに凄惨だったからか、毎回金玉か目玉の損失の心配するのは選手が嫌だったからか、ルールは整備されスポーツとしての格闘技へ整備されていきました。

ちなみに初回の優勝者は柔術の選手でした。当時の格闘技は、立ち技と組み技、そして寝技の繋がりに慣れておらず、どうすれば決着なのか曖昧なのもあったのかと思います。

そして柔術もまた、当たり前の技術となり、対策されました。

結局、総合格闘技で勝つには総合格闘技のルールに最適化するのが一番だとなっています。

ルールを削ると勝者が居なくなりがち

ルールのない武道の世界、喧嘩の世界であれば、もっと公平な強さ比べができるのではないかという意見があります。

昔は武道家同士が、合意のもと立会人を立てて立ち会う(戦う)といった決闘はあったと思います。

お互いに看板があり、文字通り命がけの戦いだったと思います。

しかし戦えば結局遺恨が残ります。

同意した武道家同士でもこのような有様なので、喧嘩もまた多くの場合「勝負」から離れて「紛争」「闘争」に発展します。

その際、有効な能力は、人を集める能力、武器を集める能力、相手の生活を脅かす能力になります。

そして多くの場合、格闘技の能力は、意味のないものになります。

その「紛争」「闘争」の一番大きなものが「戦争」であり「経済競争」や「外交」です。

「勝負」以外の争いは不健全

大日本帝国は、第二次世界大戦で敗れ敗戦国になりましたが、だからと言って全てが西欧諸国や中国に劣っていたわけではないのです。

他の列強に比べて準備期間の少なさや資源のなさ、戦略と戦術の巧拙など様々な要因があると思いますが、敗戦の結果、日本は多くの文化を破壊されました。だからと言って国としてすべての面で劣っていたと断ずるのは短絡的だと思います。

 つまり、「勝負」は条件によって容易に結果が変わるし、節度がなく「紛争」「闘争」へ発展した「勝負」は、どちらかが被害者になってもお互いを傷つけ続ける結果になるということです。

手を出すべきではありません。

やっと「勝負」出来たと思っても、「勝負」のルールで勝敗の結果は大きく変わってしまうのが「勝負」です。

あなたが負けたと思った事象は、「勝負」ですか、「闘争」ですか、それともただの誹謗中傷に対する被害ですが?結局そこの定義が曖昧で、「誰とどのルールで戦うのか合意して勝負したのか」といったことすら曖昧ならば、もはや何に負けて悔しがっているのか意味不明といった状態になります。

それにボクシング選手に何の訓練もなくボクシングで負けて悔しがることは相手に失礼です。

相手はプロでボクシングのルールに則って勝つために日夜訓練をしているプロです。

同じ土俵ではないのです。

負けるのが当たり前で、そもそも同じ土俵に立っていません。

それが悔しいようでは、ボクシングに対しての勉強が足りないし、勝負に臨む人としての心構えも足りません。

勇気と蛮勇は違うのです。

「勝負」以前に、負け以前に、ひとり相撲になっていませんか?

ユヴァル・ノア・ハラリ著『サピエンス全史』によると、45億年前に地球は出来て、約600万年前に人類が誕生、我々ホモ・サピエンスは約20万年前に歴史に現れ、農業をするようになったのは1万2000年前でしかないとのことです。

歴史が分かるのは数千年程度しかないとのことです。

地球規模で考えると地球にとって、人類の歴史は一瞬の一瞬での出来事であり、我々の一生の期間なんて歯牙にもかけない出来事なのかもしれません。

そして人類が覇権を握ったのも偶々であるそうです。小麦の奴隷という意見もあるとのことです。

たまたまにたまたまに我々は存在するのであって、意味なんて無いのかもしれません。

だから生きる意味なんてものは本来無いのかもしれません。

生きる意味なんて無いのだから、戦う理由も競う理由もないのであって、金銭の多寡や筋力や能力の多寡が何か意味があるのかと言えば、意味なんて無いのかもしれません。

生活の質が向上するかもしれないししないかもしれない。その程度の影響でしかないのかもしれません。

きっと今の人類は10万年も待たずに滅び、次の世代にバトンタッチするのでしょう。

次の世代は何になるのかさえ、見当もつかないし、我々には関係のないことです。

どんな恥ずかしいことをしようとどんな名誉なことをしようと、46億年の中でのたった10万年ですべて消えてしまいます。

だから人生の意味や「勝負」のテーマは、自分で定義していくしかないのです。

ほかの人は自分の事で手一杯ですし、神様は、ここ2000年は我々の前に出てきてくれていないようですから、自分で決めていくしかない。

「勝負」と思っているほとんどの事は、些細なことです。

「勝負」なんてくだらないと思います。

そもそも生きている人それぞれに、自分なりの人生のルールや目的があり、背景も異なるのですから、そういう人を捕まえて「勝負」と思うのもおかしな話だと思うのです。

著者は「勝負」をすることを否定するつもりはありません。

「勝負」の為に、対策を練り、訓練し、勝敗を決して、その後の対策を考えるという行動は、自分を高める素晴らしい行動だと思います。大いに「勝負」をすべきだと思います。

 著者が良くないと思うことは、「勝負」でもないことにのめり込み、負けでもないことに負けたと大わめきしていること、「勝ち」でもないことに変な自信を持つことが人生に何ら向上を与えない行為で辞めるべきだと申しているのです。

人生に自分なりの意味を持たせ、より良い生き方をしてくためには、自分なりの目標を持たなければいけません。

そしてその目標は、目標達成をすればするほど、自分なりの人生の意味を明確にするものあると良いでしょう。

他者との「勝負」がその目標達成に有効であればすれば良いし、勝てない勝負で意味を感じなければ避ければよいと思います。

きっと他者の人生の目的と意味は、自分とは違うので、必ずしも「勝負」の必要はないと思います。

それよりも物事を進めていく上で、問題はいつも発生します。

他者と「勝負」するよりも発生した問題から「課題」を見つけ、問題を解決していく方がよっぽど建設的です。

「勝負」に徹すれば人は離れていくし、「課題」を解決していけば人の役に立つことができます。

人生で「勝負」は本当に小さな問題です。

そして「勝ち負け」は昔に過ぎ去った事象でしかありません。

「負け」を見つめなおし、得るモノがなさそうであれば、もう忘れて次の何か「課題」を見つけ解決することを考えて行動するべきでしょう。

人生は長くてもたった100年。

争っても、協力してもあっという間なのですから、あなたならどちらを選びますか?

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